ページトップへ戻る

Volume 14, No.4 Pages 354 - 357

5. 談話室・ユーザー便り/USER LOUNGE・LETTERS FROM SPring-8 USERS

秦人(はたびと)の町 光都
Kouto – The Town of Qin People –

下條 竜夫 GEJO Tatsuo

兵庫県立大学大学院 物質理学研究科 Graduate School of Material Science, University of Hyogo

pdfDownload PDF (107 KB)

 

 中学や高校の時、聖徳太子が国書と共に小野妹子を隋に派遣したことを、日本史で習ったことを覚えている人も多いと思います。あの「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」で有名なあの国書です。山岸涼子の「日出処の天子」というマンガもあります。

 国書を送った後のことは、あまり有名ではありませんが、実は、この国書を見た隋の皇帝・煬帝(ようだい)は「失礼である」と激怒しました。すぐに怒りの返書を出しましたが、何が書いてあったかは、小野妹子がその返書を無くしてしまったので不明です。怒りに満ちたすさまじい手紙だったので、そのまま持って帰ると大変なことになると思ってなくしたことにしたという説があります。多分、本当のことでしょう。

 怒ったこの隋の煬帝、気を取り直したのか、この次の年、裴世清(はいせいせい)という役人を返礼のために大和朝廷に派遣しています。余談ですが、この時、裴世清は「アマタリシヒコ」という大王(オオキミ)と会見したと隋書東夷(とうい)列伝にはあります。日本書紀では、推古天皇という女性天皇の時代ですから、ここで中国側と日本側で内容の記述が異なります。いろいろな説がありますが、中国側にはウソをつく理由が何もないので、ここから、推古天皇、ひいては聖徳太子の存在自体が疑問になってきます[1][1] 岡田英弘:『日本史の誕生』、弓立社(1994)。ここがいわゆる「聖徳太子はいなかった」説の原点です。

 さて、このとき、この裴世清は、瀬戸内海を航行し大阪の難波(なにわ)に上陸しているのですが、途中、「秦王国があった」という記述を隋書東夷列伝に残しています。これは、「秦人(はたびと)の町があった」、「あるいは秦人が話す中国語を話す人々の町があった」と解釈することができます[1][1] 岡田英弘:『日本史の誕生』、弓立社(1994)。この町は、下関あたりにあるというのが定説です。

 SPring-8から海のほうにいったところに、坂越(さこし)という港町があります。赤穂市の中心から東へ2 kmほど行った所です。ここには秦河勝(はたのかわかつ)という人の墓があります。秦河勝は秦人あるいは秦氏でいちばん有名な人です。また、その秦河勝ゆかりの大避(おおさけ)神社が、上郡から赤穂にかけて点在しています。だから、この西播磨にも秦人の町があったことになります。そして、SPring-8のあるここ光都も秦人の町の中に入ります。光都の入り口の三濃山(みのうさん、みのやま)の頂上付近に、やはりこの大避神社があるからです。

 秦河勝を筆頭とした秦氏というのは、6世紀から7世紀にかけての、日本で最高の技術集団であり、かつ渡来人です。東京農工大学大学院技術経営研究科の松下博宣教授は次のように秦氏を説明しています[2][2] http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/kaikaku/ index.html。ここから引用してみましょう。

 

 秦氏はユーラシア大陸のかなり奥まった地域の出身で、朝鮮半島を経由してやってきた渡来系氏族である。秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来してきた。鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。
 秦河勝は、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、厩戸皇子(著者注:聖徳太子のこと)のブレーンとして大活躍した。厩戸皇子は、当時の微妙な外交、地政学的ニュアンスを熟知していた秦河勝から、儒教、仏教のみならず中東系諸宗教、律令制といった当時の知のワールド・スタンダードのみならず、国際政治、通商、パワーポリティクスの機微を徹底的に学んだのである。(諜報謀略講座 第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議より)

 

 というわけで、秦氏はまさに科学者集団であったわけです。我々、科学技術集団が今このSPring-8につどっているのと、なにか因縁を感じます。ちなみに伝承では、秦氏は、祖先があの有名な秦(しん)の始皇帝で、その後、新羅(しんら)という朝鮮にあった古代王国をへて日本に来たといわれています。

 

 さて、聖徳太子や秦河勝を含めて、飛鳥時代の人々にはゾロアスター教あるいはアケメネス朝ペルシャの影響があるという話があります。あの推理作家として有名な松本清張も、わざわざイランまで訪ね、ゾロアスター教の神殿ペルセポリス宮殿を調べ、飛鳥地方とペルセポリス宮殿では残っている石の建造物に強い相関性があると書いています[3][3] 松本清張:『ペルセポリスから飛鳥へ』、日本放送出版協会(1979)

 最近、渡辺豊和という建築家が、飛鳥の町自体にも、ペルセポリスの都市設計思想が入っていることを明らかにしました[4][4] 渡辺豊和:『扶桑国王蘇我一族の真実』、新人物往来社(2004)版。ペルセポリス宮殿は、不思議と道や建物が南北から西に少し傾いて作られています。それは角度にして20度だそうです[5][5] シリウスという星の、冬至の真夜中の位置という説があります。。飛鳥地方に太子道と呼ばれる古道がありますが、実際に20度西に傾いているそうです。線を引いて結ぶと、起点が蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳、終点が法隆寺あたりになるそうです。また、法隆寺は670年頃一回建てなおされているのですが、その再建される前の建築跡(斑鳩寺)も20度傾いているそうです。

 さて、ではSPring-8のある我らの光都はどうでしょうか?秦人の町であれば、同じように20度傾いた古道があるはずです。

 今、大避神社のある三濃山山頂から西に20度傾いた線を引いてみましょう(図1)。すると、サッカー場、ゴルフ場、理研棟のあたりをつきぬけます。終点は三原牧場。ここには、ほとんど知られていませんが、蛇穴神社という小さな祠(ほこら)があります。ちなみに京都にあるもうひとつの秦河勝の墓と考えられている古墳は蛇塚古墳といいます。また、ちょっと下りたところには、珎浪(しんなみ)神社という神社もあります。「しんなみ」は「しんろう」とも読めますから、新羅系の神社でしょう。ちなみに、SPring-8の線型加速器は、ほぼこの直線上にあります。偶然ではないと思います。

 

 

図1 光都周辺の地図と地形図。赤線は三濃山山頂から西に20度傾けた線を示したもの。Google mapにより作成した。

 

 

 実は、三濃山からのこの20度傾いた線上は、光都にはめずらしく、ずっと緩やかな連続した斜面になっているのです。もうすでに光都は大規模な都市開発がされているので、確認できるのは三濃山の近くだけです。しかし、たしかにゆるやかなまっすぐな斜面になっています(写真1)。また、そこには、飛鳥地方のように、ところどころ怪しい大きな石のかたまりも落ちています(写真2)。

 

 

写真1 三濃山頂上へと続くなめらかな道。三濃山から北へほぼ20度傾いた線上にある。

 

 

 

写真2 三濃山へと続く道の途中にある石群。

 

 

 飛鳥と光都を比較してみましょう。蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳が三濃山山頂、また、万葉集で有名な天香具山(あまのかぐやま)や耳成山(みみなしやま)に対応するのが、SPring-8のある三原栗山ということになります。

 三原栗山の頂上には珍しい木が生えていると聞いたことがあります。これは子安(こやす)の木ではないでしょうか?子安の木は中国と西播磨にしかない珍しい木です。上郡の大避神社にも生えています。その名の通り、木の皮を煎じて飲むと安産になるという言い伝えのある木だそうです。子安の木でなくても、中国ゆかりの木なら、中国から来た秦人が植えたということになりそうです。

 また、大避神社のある三濃山は、石舞台古墳のようなお墓をつくった聖なる山となりそうです。中国の泰山(たいざん)みたいなものでしょうか。そこで、次に大避神社がどのように西播磨に分布しているかを見てみましょう。

 兵庫県の地図では8つの大避神社が確認できます(図2)。図をみると北斗七星の形をしているのがわかります。ただし、桶(おけ)が柄(え)の右にあるはずなのに左にあります。今、我々が通常夜空で見るような北斗七星だとして柄杓(ひしゃく)の上下を反転しておきましょう。こうすると実際の北斗七星そっくりです。ちなみに秦河勝の絵には北斗七星が描かれたものがあるそうです。

 さて、北斗七星の片方のへりを5倍すると北極星の位置がわかります。残念ながら、三濃山は北極星の位置から少しずれています。しかし、三濃山山頂は、おおよそ北極五星の「帝」の位置です。この星は2000年前の北極星です。

 

 

図2 三濃山と大避神社の位置関係。白星印が大避神社の位置を示す。三濃山の頂上付近にも大避神社がある。点線は、桶(おけ)のところをひっくり返した図。

 

 

 実は、飛鳥時代は占星術が日本で取り入れられた時代でもあります。安倍晴明で有名な「陰陽道(おんみょうどう)」のことです。例えば、日本の象徴である天皇陛下の「天皇」というのは、この飛鳥時代にでてきたことばですが、実は北極星という意味です。天体はすべて北極星を中心にしてまわります。だから世界は天皇を中心にしてまわるという思想です[6][6] 斎川 眞:『天皇がわかれば日本がわかる』、ちくま新書(1999)。ちなみに、陰陽道で天体観測に従事していた人が「天文博士(てんもんはかせ)」で、暦(こよみ)に従事していた人が「暦博士(れきはかせ)」です。博士という称号はこのあたりから来ているのでしょう。

 「こんな播磨の辺境に、そんな町があるわけないよ」と思う方は多いと思います。では、なぜここにあるのか。それは、ここ光都で金(きん)、多分、砂金が取れたからです。光都になる前、このあたりは金出地(かなじ)といいました。文字通り、「金(きん)がでる土地」です。地元の人に聞いたところ、「大昔は金がとれたとおばあさんから聞いた」といっていました。マルコポーロのいう「黄金のジパング」は本当にあったんだと思います。

 さて、では実際に三濃山に登ってみましょう。三濃山頂上は小さい石がごろごろしています。また、西の斜面には、たくさんの大きな石がちらばっています。よくわかりませんが、古墳の跡の様にも見えます。世界地図をみればわかりますが、正確に真西をたどると、秦の首都、咸陽(かんよう)があります。

 

 

写真3 SPring-8長尺ビームライン付近から見た三濃山。

 

 

 

写真4 三濃山にある大避神社。

 

 

 ここまで書いた話は、私が勝手にいっていることで、なにひとつ考古学、歴史学で認められたことではありません。しかし、ただのいなか町、光都にこんな秘密があったと考えるだけでロマンチックではありませんか?

 

 

 

参考文献

[1] 岡田英弘:『日本史の誕生』、弓立社(1994)

[2] http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/kaikaku/ index.html

[3] 松本清張:『ペルセポリスから飛鳥へ』、日本放送出版協会(1979)

[4] 渡辺豊和:『扶桑国王蘇我一族の真実』、新人物往来社(2004)版

[5] シリウスという星の、冬至の真夜中の位置という説があります。

[6] 斎川眞:『天皇がわかれば日本がわかる』、ちくま新書(1999)

 

 

 

下條 竜夫 GEJO Tatsuo

兵庫県立大学大学院 物質理学研究科

〒678-1297 兵庫県赤穂郡上郡町光都3-2-1

TEL:0791-58-0166  FAX:0791-58-0132

e-mail:gejo@sci.u-hyogo.ac.jp

 

 

Print ISSN 1341-9668
[ - Vol.15 No.4(2010)]
Online ISSN 2187-4794