Volume 26, No.4 Pages 360 - 367
1. 最近の研究から/FROM LATEST RESEARCH
2016年度指定パートナーユーザー活動報告
強相関電子系分子性物質の赤外顕微イメージング分光による電荷ダイナミクスの研究
Study of Charge Dynamics in Strongly Correlated Electron-Based Molecular Materials by Infrared Micro-Imaging Spectroscopy
(1)
指定時PU課題番号/ビームライン | 2016A0073/BL43IR | ||||||||
PU氏名(所属) | 佐々木 孝彦(東北大学) | ||||||||
研究テーマ | 強相関電子系分子性物質の赤外顕微イメージング分光による電荷ダイナミクスの研究 | ||||||||
高度化 | 赤外ビームラインの整備と先導的活用 | ||||||||
利用研究支援 | 当該装置を用いた利用実験の支援 | ||||||||
利用期 | 16A | 16B | 17A | 17B | 18A | 18B | 19A | 19B | 合計 |
PU課題実施シフト数 | 33 | 29.75 | 35.5 | 36 | 35.5 | 35.125 | 35.375 | 35.75 | 276 |
支援課題数 | 0 | 0 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 3 | 12 |
(2)PU活動概要
1)目的
本パートナーユーザー(以下、PU)課題では、強相関電子系分子性物質の電荷ダイナミクス研究における赤外物性ビームラインBL43IRでの研究活動成果を基にして、【1】放射光赤外顕微偏光分光による微小試料、微小領域測定に対する実験安定性の向上と遠赤外光領域測定の安定化・高精度化、および、【2】磁気光学ステーションの優位性を生かす遠赤外光領域への拡張とステーションの安定利用・標準化および光強度増強に向けた光学系改修について、ビームライン担当者と共同して実施することを目的とした。あわせてこれらの高度化によるビームライン利用ユーザーの利便性向上と利用者支援および新規利用者開拓を目指した。
【1】および【2】による高度化、特に遠赤外光領域での微小領域分光技術の向上により、強相関電子系分子性物質に発現する拮抗した電子秩序相の境界領域で誘起される量子的な電荷・スピン自由度による非自明な量子状態-量子スピン液体・電荷液体、電荷ガラス状態など-に対して、低エネルギー赤外分光測定による電荷ダイナミクス研究の進展が期待できる。
分子性物質においては、電荷・スピンの自由度と分子格子自由度の結合により、多彩・多様に交差した複合自由度が誘起され、それらが空間・時間的な発展過程を伴って特徴的なパイ電子系の秩序化とその緩和過程(ガラス化と融解)や空間分布(短距離相関、クラスター化)が現れる。このような特徴的電子状態は、これまでにない電子機能性を生み出す概念創出の場として、分子性物質に限らず、広く無機強相関電子系物質においても現在の物性物理研究の重要な研究分野・課題となっている。このため、低エネルギー遠赤外分光・磁場印加をキーワードとするビームライン高度化は、本PU課題研究のみならず、広く強相関電子系研究全体に資するもので、ユーザーの拡大と利用実験の高度化につながると期待できる。また強相関電子系研究以外に対しても、現在のビームラインが有する基本性能の改善を通してユーザー利用実験(微小試料、微小領域分析)におけるデータ精度向上に貢献できる。
2)高度化への協力
本PU課題で行ったビームライン高度化は、大別して以下の2項目である。
【1】放射光赤外顕微偏光分光による微小試料、微小領域測定に対する実験安定性の向上と遠赤外光領域測定の安定化・高精度化
BL43IRには、2系統の分光器・赤外顕微鏡ステーションが設置され、それぞれが測定環境・条件(温度、圧力、エネルギー領域)、分解能の違いなどにより使い分けられている。放射光利用による赤外分光実験の利点は、放射光光源が有する高い指向性による高空間分解能であるが、実際には、より外因的な要素(挿入偏光子の偏心や厚みむら、アパーチャーの機械精度、駆動ステージの剛性不足、ポンプからの振動など)により空間分解能が変動・悪化する。このような外因的要素については、限られた各ユーザーのビームタイム内において系統的に対処することが難しい。本高度化項目では、微小試料、微小領域に対する高い空間分解能を安定的に発揮できるように、周辺付属コンポーネントの安定性を系統的に向上させて実質的な分解能を向上させること、遠赤外光領域での実験実施における利便性を向上させることの2点を目的とした。本項目では、赤外顕微マッピング測定用のユーザーマニュアルの作成など、特定課題を対象としないステーション全体としての利便性向上についてもビームライン担当者と協力して行った。
a)偏光子の光路挿入位置変更と回転機構の高剛性化
高空間分解能赤外分光ステーションに設置されている赤外顕微鏡に標準で付属している偏光子ユニットは、回転機構の機械精度が低く、偏光子の回転時に光学軸の「ぶれ」が生じてしまい実験データの再現性が悪い。また回転機構の角度精度も悪いため、偏光測定時の測定精度に影響を及ぼしていた。さらに顕微鏡内光路中の偏光子挿入位置が放射光赤外光の使用時には適切ではないなどの問題があった。この問題を解決するために、顕微鏡とフーリエ変換型分光器の連結部分にアクリル製の回転機構を有する偏光子挿入部を作製・設置した。また、偏光子として剛性の高い金属枠に組み込まれている製品を使用できるようにした。この偏光子は赤外ビームラインの他の顕微鏡でも使用できるもので遠赤外また近赤外利用の時には共通した偏光子を使用できるなど装置汎用性・相互利用性を高めている。本改良により、偏光測定時においても再現性の高いデータを得られるようになった。
b)試料・冷凍機走査駆動機構の高剛性化
ヘリウムフロー型光学クライオスタットを使用して赤外スペクトル測定を低温で行う場合には、微小試料上の顕微測定位置の調整や空間マッピング測定のために、クライオスタットを重量のあるトランスファーチューブや真空排気用のフレキチューブとともに顕微鏡下で微小移動させる必要がある。この微小移動機構(ステッピングモーター駆動によるXYステージ)をステップ動作させるとその振動が増幅されてクライオスタットに伝わり、位置精度が極端に悪化していた。この現象を改善するためにXYステージとクライオスタット保持部をつなぐ部材を高剛性化し振動を軽減した(図1)。また、真空ポンプとクライオスタットをつなぐ真空排気チューブの除震固定方法の改良などをあわせて行い、XYステージのステップ動作時に発生する振動を低減することで、試料位置精度を大幅に向上することができた。
図1 赤外顕微ステーション高剛性化クライオスタット走査駆動機構
c)遠赤外光領域用クライオスタット光学窓の探索・供用
遠赤外光領域の真空光学窓としてはダイヤモンドやZnSe、ゲルマニウムなどがあるが、サイズ、価格、試料位置確認のための可視光域透明性を考慮すると、ポリプロピレンフィルムの使用が一般的である。ただし、フィルム厚さにより目的とするエネルギー領域に干渉によるスペクトルの振動が生じる他、フィルムの機械的な強度の弱さから真空によるたわみや劣化、真空破れなどの問題が生じる。厚さや用途の異なる市販のポリプロピレンフィルムを多数収集し、光学窓材としての光学特性、機械強度のテストを行い、有効な材料でのクライオスタット窓の作製とそのストックを行い、一般ユーザーへの供用を行った。
【2】磁気光学ステーションの優位性を生かす遠赤外光領域への拡張とステーションの安定利用・標準化および光強度増強に向けた光学系改修
BL43IRでは、先駆的な実験環境整備として10年以上前に無冷媒の高磁場超伝導マグネットが導入され、強磁場中での赤外分光を可能とする磁気光学ステーションが整備されていた。しかし、本ステーションは、世界的に見ても非常に強力な装置であるが、一般ユーザーのみによる利用準備や実験実施のハードルの高さ、遠赤外光領域が測定範囲外となっているなどの理由から長期間休眠状態であり、設備のポテンシャル、優位性を生かし切れていない状況であった。本PU課題では、磁気光学ステーションをよりユーザーフレンドリーなシステムとすること、また遠赤外光領域への測定範囲拡張により、一般ユーザーが、磁場発生・制御や低温環境での測定を安定的に行えるようなステーション運用の標準化に取り組んだ[4][4] SPring-8 Publication ID = 39353
S. Iguchi et al.: "Improvement of Magneto Optical Station in BL43IR" SPring-8/SACLA利用研究成果集(SPring-8/SACLA Research Report)8 (2020) 88-92.。
再立ち上げにおいて行った主な改善点は、1)液体ヘリウム使用量の低減、2)位置変動および振動の抑制、3)光強度増強のための光学系改修および遠赤外光領域への拡張のための光学素子変更、4)偏光方向および磁場方向の調整機能設置などである。
図2は磁気光学ステーションおよびその周辺の概略図である。赤い矢印は蓄積リングから検出器までの光路を示しており、黄色で示した箇所は本PU課題の高度化として大きく変更あるいは新造した部分である。右側の黒い四角で囲んだ領域はステーションの外部を上方から見た配置図である。フーリエ変換赤外分光光度計(FT-IR)からの出射光は2枚の金ミラーによってステーション内に導かれる。左側の黒い四角で囲んだ領域は、防磁シールドで囲まれたステーション内部を正面から水平方向に見た図である。光学台とクライオスタットは同じ床面に載っているが、マグネットはそれとは異なる床面に載っている。また、マグネットの足には防振部品が使用されている。以下、各改善点について紹介する。
図2 磁気光学ステーション(写真)と周辺部を含む構成概略図
1)寒剤使用量の低減、ユーザーフレンドリーなクライオスタットへの新造交換
低温度領域での実験効率を向上させるためには、実験に使用する低温寒剤(液体ヘリウム)の量を減らすことが重要である。少量の寒剤で迅速に安定な低温環境が得られるように、クライオスタットを設計・新造した。これによって、液体ヘリウムの使用量は室温から150 K程度までは測定温度を保持するのに0.5 L/h程度以下(液体換算)、30 K程度までは1 L/h程度、10 Kまでは1.5-2.0 L/h程度、5 Kでは3 L/h程度となった。改善以前は、10 K程度で2.5 L/h程度、4-5 Kで4 L/h程度であったので、20-30%向上している。また、クライオスタット全体が完全に室温になっている状態から数十Kまで冷却し、温度と熱収縮が安定するには6時間程度必要であるが、一旦数十Kまで冷却すれば、1時間程度で室温から10 K程度まで急速冷却が可能である。この速度に関してはヘリウム流量に大きく依存するため、改造前の性能と直接比較することは困難であるが、温度保持に要するヘリウム消費量と同程度(20-30%)の効率向上はあると考えられる。ヘリウム消費量を大幅に減らせたことで効率的な実験実施が可能となった。
2)位置変動および振動の抑制
安定的な顕微分光測定のためには、試料および集光顕微位置の変動や測定系の振動を可能な限り抑える必要がある。磁気光学ステーションにおける振動の主な発生源は、無冷媒超伝導マグネットの冷凍機である。50-100 μm程度の微小領域での分光測定を想定していることから、10 μm程度以上の振動があってはならない。改善前は磁気光学ステーション内の光学系を載せたベース台と床の間は、防振ゴムを使った柔軟な固定方法が取られており、床からの振動軽減の効果を重視していた。しかし、遠赤外光領域の拡張において設置が必要となる遠赤外光用Siボロメータ検出器は、重量が7 kgほどあり、ボロメータの着脱によって防振ゴムが伸縮して光学系全体がわずかに傾き、試料上の光焦点位置がずれてしまう。これらを解決するため、既存の光学系全体を強固な非磁性の光学ステージの上に設置し、超伝導マグネットおよび冷凍機に接続する圧縮ガスのチューブなど、振動の発生源と、検出器やクライオスタットを含む光学測定系とを設置床面から分離した。これらの全面改良により、光学系の傾きなどによる位置変動に関しては通常の実験作業時には検出できない程度に抑制された。また、振動に関しては、無磁場状態では数μm以下、磁場印加時ではやや大きくなるが、10 μm以内に抑えることができるようになった。
3)光強度増強のため光学系の改修
指向性の高い放射光赤外光源であっても、光路中の光学素子の影響もあり、測定試料や信号検出器に至るまでの長距離(約10 m)を進む間にビーム径は広がってしまう。特に、遠赤外光は中赤外光に比べてビーム径が広がっており、遠赤外光領域への拡張を行うには、できるだけ辺縁の光も集め、強度の向上を図ることが不可欠である。これらを念頭にして良好なビーム形状を保つために、光路と光学部品の大幅な変更を行った。本高度化改修の効果として、磁気光学ステーションの光強度は、改修以前の休止状態時に比べて約5-10倍となり、既存の顕微赤外ステーション測定系の25-50%程度まで増強することができた。この結果、通常の顕微反射測定を行う場合と比べても、遜色ない強度とS/N比が磁気光学測定で得られるようになった(図3)。また、改修以前はほぼ1日かかっていた光学系の調整時間を、約1-2時間程度と大幅に短縮することに成功した。さらに、3-4日程度のビームタイム内では有意な光強度・信号強度の変動は見られないほど安定した光学系となった。
図3 光学系改修後の磁気光学ステーションにおける赤外分光範囲。金ミラーの反射強度スペクトル(クライオスタット内)の測定結果を示す。各スペクトル(赤、青、黒)に測定セッティング条件を示している(W1(赤外光取出口窓材)/BS(FT-IRビームスプリッタ材質)/FT-W2(FT-IR出射口窓材)/Cryo-W3(クライオスタット窓材):それぞれの材質は、BaF2(フッ化バリウム)、KBr(臭化カリウム)、KRS-5(臭ヨウ化タリウム)、Dia(ダイヤモンド)、PP(ポリプロピレン)、Mylar(マイラーフィルム))。青、黒スペクトルはMCT検出器、赤スペクトルは遠赤外光領域用Siボロメータ検出器を使用。本高度化により遠赤外光領域(赤スペクトル)の測定が可能となった。
4)偏光および磁場方向の調整機能の設置
新造したクライオスタットを光学系・超伝導磁石システムに設置した後、鉛直方向を軸とした角度回転ができるような回転機構を追加した。また、マグネットに接触しない範囲でクライオスタットを鉛直方向から微小に傾けることで、あおり角度も調整可能とした。これらによって、放射光自身の強い偏光特性に対して試料の軸を回転調整することが可能となり、偏光方向依存性が大きな試料の場合は、特に信号強度の改善が可能となった。
通常は試料反射面が印加磁場に垂直となる配置(ファラデー配置)で反射率測定を行うが、試料直近に45度微小金ミラーを配置し光路を曲げることで、試料反射面が磁場と平行となる測定(フォークト配置)が可能となり(図2参照)、反射率測定における磁場、電場の全てのテンソル成分を得ることが可能となった。
以上のような磁気光学ステーションの再整備・拡張の完了と利用マニュアルの作成により、赤外分光実験の経験がある一般ユーザーであれば、初回の説明・準備支援により常時継続的な支援がなくても強磁場中遠赤外-中赤外分光実験の実施が可能となった。
3)PU研究成果
本PU課題における高度化に関連した利用実験の成果として、高空間分解能顕微ステーションを利用した、強相関電子系分子性物質における特徴的電荷自由度の発現による、a)「電荷ガラス」状態の発見・解明、b)ダイマーモット/電荷秩序の量子臨界現象の検証、c)π-d相互作用を伴う電子ドープされた電荷秩序状態などについての成果があった。いずれも放射光赤外顕微分光測定の特徴が生かされた成果である。
a)強相関電子系分子性物質での「電荷ガラス」状態の発見・解明
物質の三態として、原子、分子の集積形態の違いによる気体-液体-固体間の相転移は、原子、分子間の結合の強さ(相互作用)と温度(エネルギー)との関係で起こっている。このうち固体状態に分類されるガラス状態は、液体からの急冷により非平衡条件下で実現する。電子系における物質の三態に対応する状態は、電子が遍歴的に自由に動く金属(自由電子)状態[気体]-電子が相関(クーロン相互作用)をもって集団的に機能する状態[液体]-電子が局在絶縁体化した状態(電荷秩序/モット絶縁体状態)[固体]である。物質構造状態としてのガラスに対応する電子系の状態に関しては、これまでスピンに対するスピングラスの研究は進んでいるが電荷に関しての研究は、ほとんど行われていない。
本PU課題では、電荷秩序絶縁体状態を示す分子性物質θm-(BEDT-TTF)2TlZn(SCN)4において、急冷条件下での電荷の「ガラス状態」を発見し、その機構について赤外分光による電荷分布の決定などから明らかにした。ここでBEDT-TTFとは、図4上部に示す分子構造を持つ平板状分子で、bis(ethylenedithio)-tetrathiafulvalen(C10S8H8)の略称である。本電荷ガラス状態発見の結果、原子/分子による構造ガラスと物質中電荷による電荷ガラスでは、ガラス形成に関するマクロな特性が非常に似通っていることなどが明らかになった。このことは、相互作用の種類やエネルギーの違いによらず、ガラス状態を特徴付ける時間スケールやガラス状態への変態については類似性があることが分かった。この発見は、今後のガラス研究一般において、電子系での電荷ガラス状態研究が構造ガラス研究を補完する研究対象となり得ることを示した成果である。
本電荷ガラス研究においては、対象物質が微小単結晶であり小さな顕微面積での安定した赤外分光測定を必要とすること、選択された分子振動モードの観測によりミクロな分子上電荷の情報(電荷量、分布)を得られること(図4)、などからBL43IRでの赤外分光実験は、電荷ガラス状態検証において欠くことのできない実験手法であった[1,3][1] SPring-8 publication ID = 33081
S. Sasaki: "Charge Vitrification and Crystallization Dynamics in an Organic Conductor with Geometric Charge Frustration" Doctoral Thesis (Tohoku University) (2017).
[3] SPring-8 publication ID = 34656
S. Sasaki et al.: "Crystallization and Vitrification of Electrons in a Glass-Forming Charge Liquid" Science 357 (2017) 1381-1385.。
図4 赤外分子振動分光測定による電荷秩序・電荷ガラス状態でのミクロな分子上電荷量情報の実験検証[1,3][1] SPring-8 publication ID = 33081
S. Sasaki: "Charge Vitrification and Crystallization Dynamics in an Organic Conductor with Geometric Charge Frustration" Doctoral Thesis (Tohoku University) (2017).
[3] SPring-8 publication ID = 34656
S. Sasaki et al.: "Crystallization and Vitrification of Electrons in a Glass-Forming Charge Liquid" Science 357 (2017) 1381-1385.
b)強相関電子系分子性物質でのダイマーモット/電荷秩序の量子臨界現象の検証
2サイト当たり1個のキャリア(電子、ホール)が存在する1/4充填バンド強相関電子系物質は、電子相関が弱い場合は金属となるが、強い場合は低温基底状態として、2サイトのダイマー化の強さによりダイマーモット絶縁体(ダイマー化大)、または電荷秩序絶縁体(ダイマー化小)となる。この2状態がダイマー化の程度をパラメーターとして拮抗する条件では、ダイマーモット状態と電荷秩序状態に挟まれた大きな電荷ゆらぎを伴った量子臨界状態の発現が期待されている。
本PU課題では、分子性物質(BPDT-TTF)2XのアニオンX分子を置換することでダイマー化の程度を変えた一連の物質群を準備し、それらの系統的な赤外スペクトル測定を行った。ここで、BPDT-TTF(bis(propylenedithio)-tetrathiafulvalene)分子は、前述したBEDT-TTF分子の末端エチレン基を、プロピレン基に置換した分子である。X分子を置換した物質群の電荷励起状態を、ダイマー化の強さに対してマッピングすることで量子臨界性に関する知見を得た。ダイマーモット/電荷秩序相内の典型的な2つの物質に関して、それぞれの電子状態と赤外スペクトルの相関について調査し、アニオンXで構成される物質を含む量子臨界に至る相図を構築した[2][2] SPring-8 publication ID = 34470
R. Kobayashi et al.: "Dimer-Mott and Charge-Ordered Insulating States in the Quasi-One-Dimensional Organic Conductors δ'P and δ'C-(BPDT-TTF)2ICl2" Physical Review B 96 (2017) 115112.。
本研究における臨界領域で期待される大きな電荷ゆらぎが反映される低エネルギー域(遠赤外光領域)での微小領域分光は、実験室光源に対して放射光光源が絶対的な優位性を有している。
c)強相関電子系分子性物質でのπ-d相互作用を伴う電子ドープされた電荷秩序状態
磁性元素であるCo(コバルト)をアニオン層に含む分子性導体は、遍歴パイ電子と磁性d電子の相互作用により伝導-磁性が相関した磁気応答を示す。この物質の低エネルギーパイ電子状態の磁場応答を明らかにすることを目標として、磁気光学ステーションによる磁場中赤外反射測定を含めて赤外顕微測定を行った。本物質は、PUらにより新たに合成・発見されたものであるため、その基本性質の調査を行ったところ、有機錯体物質では非常に珍しい電子ドープ型の電荷秩序状態を形成していることが分かった。わずかに1/4充填からずれていることで、特徴的な電荷分布を有した安定性が高くない電荷秩序絶縁体状態となり、π-d相互作用によりd電子スピンが外部磁場により反応し、それがパイ電子電荷状態に作用することを明らかにした。本研究の電荷状態解明では、平板上単結晶側面における微小領域赤外偏光分光測定による電荷状態に敏感な分子振動モードの観測が重要であり、μmスケールでの安定な顕微測定により初めて可能となった(図5)[7][7] SPring-8 Publication ID = 41868
S. Iguchi et al.: "Charge Ordering and π-d Interaction in Electron Doped 3/4-Filling Molecular System α"-(BEDT-TTF)2Rb2xCo(SCN)4 (x = 0.6)" Journal of the Physical Society of Japan 90 (2021) 074701.。
図5 平板状微小単結晶側面における赤外分子振動分光測定により明らかになった電子ドープ状態での電荷秩序絶縁体状態[7][7] SPring-8 Publication ID = 41868
S. Iguchi et al.: "Charge Ordering and π-d Interaction in Electron Doped 3/4-Filling Molecular System α"-(BEDT-TTF)2Rb2xCo(SCN)4 (x = 0.6)" Journal of the Physical Society of Japan 90 (2021) 074701.。光学伝導度スペクトルのピーク構造は、分子振動(ν27モード)によるものである。この振動は分子上の電荷量により波数シフトし、その位置から電荷量を知ることができる。左図は分子振動ピーク波数の温度依存性から決めた分子上電荷量。120 K以下で2つから4つの異なる電荷量に分かれた特徴的な電荷秩序状態になっていることが分かる。
4)ユーザー支援活動
高度化項目【1】に関しては、特定ユーザー、特定課題を対象とした支援ではなく、ビームライン利用者の利便性向上として広く貢献したものである。その中でPUとして、利用者支援および共同研究として成果があった2つの研究課題内容を簡単に紹介する。
・ペロブスカイト酸化物薄膜BaSn1-xPbxO3のバンド反転・交差による金属絶縁体転移を光学スペクトル変化として観測(図6:東北大学金属材料研究所 塚崎グループ)[5][5] SPring-8 Publication ID = 39665
J. Shiogai et al.: "Signature of Band Inversion in the Perovskite Thin-Film Alloys BaSn1-xPbxO3" Physical Review B 101 (2020) 125125.。
図6 BaSn1-xPbxO3のバンド反転・交差の概念図と交差点における金属絶縁体転移を反映した光学スペクトル変化[5][5] SPring-8 Publication ID = 39665
J. Shiogai et al.: "Signature of Band Inversion in the Perovskite Thin-Film Alloys BaSn1-xPbxO3" Physical Review B 101 (2020) 125125.
・新規の金属有機構造体(MOF)超伝導の発見とその特徴解明。超伝導状態での侵入長導出において、光学スペクトル測定によるプラズマ周波数(有効質量、キャリア数)の評価が解明のカギとなった(図7:東京大学大学院新領域創成科学研究科 芝内・橋本グループ)[6][6] SPring-8 Publication ID = 41417
T. Takenaka et al.: "Strongly Correlated Superconductivity in a Copper-Based Metal-Organic Framework with a Perfect Kagome Lattice" Science Advances 7 (2021) eabf3996.。
図7 金属有機構造体Cu-BHTの結晶構造とドルーデ型の金属的光学応答を示す光学伝導度スペクトル(4K)[6][6] SPring-8 Publication ID = 41417
T. Takenaka et al.: "Strongly Correlated Superconductivity in a Copper-Based Metal-Organic Framework with a Perfect Kagome Lattice" Science Advances 7 (2021) eabf3996.
いずれの課題においても、遠赤外光領域スペクトル測定を、試料上の特定した微小領域において顕微反射測定が行えたことが成果創出に結び付いた。実験室光源に対する放射光赤外光の優位性を示すことができた支援課題である。
高度化項目【2】に関しては、徳島大学 岡村グループによる、黒リンの強磁場下における赤外分光と電子状態の研究、東京大学 有馬グループによる極性磁性体GaV4Se8の赤外反射分光の研究、筑波大学 藤岡グループによる磁性ディラック半金属EuMnBi2における反強磁性転移と電荷ダイナミクスの研究(H. Nishiyama et.al.: Phys. Rev. B 104 (2021) 115111)などが実施されており、論文発表成果も得られつつある。
また、赤外物性ビームラインの新規ユーザー開拓、磁気光学ステーションの利用促進のために各期利用課題の申請時期には、利用申請が期待できる研究者・グループをリストアップし、メールもしくは対面で、磁気光学ステーションの説明、SPring-8課題申請の案内についての連絡を行った。また、いくつかの研究会において、整備した磁気光学ステーションの性能紹介や利用案内も含むPU活動内容、研究成果の紹介を行った。
5)まとめ
本PU課題の実施においては、BL43IRのビームライン全体としてのアクティビティーの向上(量的貢献)と研究成果内容の高度化(質的貢献)の2点を目指した。質的貢献においては、インパクトの高い学術誌への掲載となる成果が利用研究や支援研究から得られた。一方で、量的貢献に関しては、高度化終了後に実施している一般利用課題はまだ多くないため、十分とは言えない状況にある。また、磁気光学ステーションが実稼働できるようになった時期にコロナ禍の影響が重なり2020年初頭以降の活動が、利用者開拓を含めて十分ではないという課題を残している。
磁気光学ステーションの遠赤外・強磁場・低温・微小領域顕微測定というユニークな装置優位性は、世界的に見ても十分に高いため、今後、ユーザー、研究テーマ、対象物質とのマッチングをビームライン担当者とともにコーディネートして利用拡大を図っていきたい。また、本PU課題終了後の展開として、強磁場磁気光学ステーションの優位性を生かして、磁気円二色性分光が可能となる測定系の拡張(図8)をビームライン担当者と共同して開始している。さらなる高度化によりビームラインのポテンシャル向上を目指したい。
図8 放射光赤外磁気円二色性分光への拡張
(3)成果リスト(査読付き論文)
SPring-8利用研究成果登録データベースに登録済みで、PU課題番号が関連付けられた査読付き論文のみを掲載します(その他、PUとして支援した一般課題の発表論文やポスター発表、受賞歴など多数の成果がありますが、掲載スペースの都合上割愛しています)。
[1] SPring-8 publication ID = 33081
S. Sasaki: "Charge Vitrification and Crystallization Dynamics in an Organic Conductor with Geometric Charge Frustration" Doctoral Thesis (Tohoku University) (2017).
[2] SPring-8 publication ID = 34470
R. Kobayashi et al.: "Dimer-Mott and Charge-Ordered Insulating States in the Quasi-One-Dimensional Organic Conductors δ'P and δ'C-(BPDT-TTF)2ICl2" Physical Review B 96 (2017) 115112.
[3] SPring-8 publication ID = 34656
S. Sasaki et al.: "Crystallization and Vitrification of Electrons in a Glass-Forming Charge Liquid" Science 357 (2017) 1381-1385.
[4] SPring-8 Publication ID = 39353
S. Iguchi et al.: "Improvement of Magneto Optical Station in BL43IR" SPring-8/SACLA利用研究成果集(SPring-8/SACLA Research Report)8 (2020) 88-92.
[5] SPring-8 Publication ID = 39665
J. Shiogai et al.: "Signature of Band Inversion in the Perovskite Thin-Film Alloys BaSn1-xPbxO3" Physical Review B 101 (2020) 125125.
[6] SPring-8 Publication ID = 41417
T. Takenaka et al.: "Strongly Correlated Superconductivity in a Copper-Based Metal-Organic Framework with a Perfect Kagome Lattice" Science Advances 7 (2021) eabf3996.
[7] SPring-8 Publication ID = 41868
S. Iguchi et al.: "Charge Ordering and π-d Interaction in Electron Doped 3/4-Filling Molecular System α"-(BEDT-TTF)2Rb2xCo(SCN)4 (x = 0.6)" Journal of the Physical Society of Japan 90 (2021) 074701.
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