Volume 10, No.5 Pages 351 - 354
2. 最近の研究から/FROM LATEST RESEARCH
生体分子の軟X線円二色性の初測定
First Observation of Soft X-ray Circular Dichroism for Biomolecules
神戸大学 発達科学部 Faculty of Human Development, kobe University
- Abstract
- Circular dichroism spectra of evaporated films of two amino acids (Phenylalanine and Serine) were measured at the soft X-ray energy region for the first time. Magnitude of signal was 0.1 % of the absorption coefficient. Asymmetric reaction will be explored from a view point of origin of life.
1.はじめに
生体を構成する重要な分子群のひとつにアミノ酸がある。アミノ酸はカイラリティーを有するため左右円偏光に対する光学応答が異なるので、円二色性(や旋光性)など特徴ある光学特性を示す。円二色性とは左右円偏光に対し異なる吸収係数を示す性質あるいは左右円偏光に対する吸収係数の差のことである。アミノ酸の円二色性はこれまで赤外・可視・紫外領域で観測され、その測定結果をもとにしてアミノ酸やアミノ酸の集合体であるタンパク質の分子構造に関する情報が得られてきた。アミノ酸の吸収は真空紫外・軟X線領域にも存在するため、これらの領域での円二色性スペクトルを測定することができれば、アミノ酸やタンパク質の構造が今よりも詳細に分かるはずである。さらに軟X線は物質との相互作用が強いので、円偏光を用いて生体分子の構造を識別し化学反応を制御することができると期待できる。
我々がこの研究を始めた根底には、軟X線円二色性のメカニズムが知りたいという「カイラリティー科学」と生命の起源を分光学の立場から探りたいという「生命起源の科学」という2つの側面があった[1][1]中川和道 : 放射光、13 (2000) 57-61.。前者は日本放射光学会誌『放射光』に関連論文が掲載予定である[2][2]中川和道、安居院あかね、田中真人 :「放射光」(掲載予定).。「生命起源の科学」においてカイラリティーの意味はきわめて重要である。我々の体を形成するアミノ酸には図1に示す2種類の光学異性体すなわちD-アミノ酸とL-アミノ酸とが存在するが、我々が知る地球生命の全てがL-アミノ酸のみを使っている。Miller[3][3]S. L. Miller : Science 117 (1953) 528.は原始地球や原始火星の大気を模擬した窒素、水、メタンなどの混合ガス中で火花放電を続けるとアミノ酸が生成することを見出したが、生成したアミノ酸はD-アミノ酸とL-アミノ酸の等量混合物(ラセミ-アミノ酸)であった。また、近年、いろいろな隕石からアミノ酸が有意な量で検出されたが、それらの多くはラセミ体であることが分かった(最近ごく一部の隕石からL-アミノ酸が過剰に検出されたので大きな話題になった)。すなわち、簡単な無機化合物からアミノ酸ができるまでの反応は宇宙でも進行し得ると考えてよかろう。だが、ラセミ-アミノ酸からいかにしてL-体アミノ酸ワールドあるいはL-アミノ酸でできたL-体アミノ酸タンパク質ワールドに至ったのかは全く分かっておらず、生命の起源研究のうえできわめて重要な未知の課題である。つまり、アミノ酸のカイラリティーの起源を明らかにすることは生命の起源を明らかにすることにほぼ等しいのである。
図1 L-アラニンおよびD-アラニンの両性イオンの分子構造。
蒸着膜中のアラニンは両性イオンである。
カイラリティーの起源の説明を試みる学説のひとつに円偏光仮説がある。アミノ酸は紫外領域に円二色性をもつので、左右いずれかの円偏光紫外光を照射するとL-、D-アミノ酸のうち吸収がつよい方が紫外光を余分に吸収し、その分だけ早く分解されるという仮説である。実際に212 nmの円偏光をロイシンというアミノ酸に照射したところ片方が早く分解されたとの実験結果が報告され、カイラリティーの起源をめぐる様々な説の中でも有力視されている。
紫外光よりも化学反応をおこしやすい真空紫外領域(λ< 200 nm)ではアミノ酸の円二色性スペクトル測定はやっと実用になりつつある。図2にアラニンの光学異性体(L-アラニン、D-アラニン)およびそれらの等量化合物(ラセミ-アラニン。DL-アラニンと略す)の円二色性スペクトルを示す。図2では市販の円二色性分散計で測定可能なほぼ短波長限界まで円二色性スペクトルを測定した。これ以下の波長では放射光の利用が決定的である。我々は産業技術総合研究所 計測フロンティア研究部門の渡辺一寿博士らとともに円偏光アンジュレーターを用いた真空紫外円二色性スペクトル測定を試みており、これまでに140 nmという最短波長を記録し[4][4]K. Yagi-Watanabe, T. Yamada, M. Tanaka, F. Kaneko, T. Kitada, Y. Ohta and K. Nakagawa : J. Electron Spectrosc. Relat. Phenom. 144-147 (2005) 1015.、さらに記録を更新しつつある。
真空紫外線よりもさらにエネルギーの高い軟X線領域では生体分子の測定の例がなかった。生体分子の軟X線領域の円二色性はその信号が小さく実験は困難であろうと予測されたからである。我々[5][5]M. Tanaka, K. Nakagawa, A. Agui, K. Fujii and A. Yokoya : Physica Scripta T115 (2005) 873.は今回、円偏光アンジュレーターを用いて実験を行い、アミノ酸の軟X線領域の円二色性スペクトルを測定することに初めて成功した。本稿では我々の研究の発端、経過、結果および展望について述べる。
図2 市販の円二色性分散計(JASCO J-720WI)で測定したL-、D-、およびDL-アラニン蒸着膜(厚さ約70 nm)の紫外領域での円二色性スペクトル。
2.実験及び実験結果
軟X線円二色性スペクトルの測定には、我々のグループが独自に開発したアミノ酸の真空加熱蒸着法によって作成した薄膜を用いた。アミノ酸としてはL-フェニルアラニン、D-フェニルアラニン、DL-フェニルアラニン(以下、L-、D-、DL-Pheと略記)、D-セリン、L-セリン(以下、D-、L-Serと略記)を用いた。これらの粉末をカプトン箔とニクロム線でつくった電気炉の上に散布して真空中で約370 Kに加熱し、あらかじめAuをコートしておいたBeCu基板の上に蒸着膜を作成した。アミノ酸薄膜の厚さは水晶振動子膜厚計で読み取った。そのさい必要となるアミノ酸固相の密度はハンドブックの値を用いた。真空蒸着で複数枚つくった薄膜のうち1枚を高速液体クロマトグラフィーで分析し、蒸着中に熱分解が起きていないことを確かめた。参考までに記すと、アミノ酸薄膜を真空加熱蒸着で作成しようと試みたきっかけは、生物学の方々にアミノ酸は何度までの加熱に耐え得るかと尋ねたことであった。物理屋、化学屋は、アミノ酸は熱的に不安定であるので真空中でも330 Kまで加熱するとたちまち分解すると信じていたし、蒸着を試みたことのあるこの分野の方々も多くは失敗したか熱分解をつよく受けた試料しか得られない経験をしてきた。ところが生物屋は培地の雑菌をまず400 K加熱で滅菌しないと培養が始まらないというのであった。アミノ酸は分解してしまうだろうと問う中川に、生物屋はアミノ酸が熱分解してしまえば培地は用をなすはずがない、もし熱分解が起きれば植えた細菌が食に困るではないか、と怪訝な顔をした。この答えに中川は参ってしまった。ならば出来ないはずはない。当時大学院生であった持田武志君とともに新技術に挑戦を始め、アミノ酸の真空加熱蒸着法の第1バージョンがついに完成をみたのは約1年後の1996年のことであった。その時のカプトンコーンは大切に保管されている。
本題に戻って、軟X線領域の円二色性スペクトルの測定はビームラインBL23SUで行った。このビームラインに組み込まれているApple2型可変偏光アンジュレーターの磁石列の相対位置(これを位相と呼ぶ)を変えて左円偏光、右円偏光を数秒ずつ交互に発生させ、光子エネルギーhνの左円偏光(L)に対する吸収係数AL(hν)と右円偏光(R)に対する吸収係数AR(hν)との差スペクトル⊿A(hν)=AL(hν)−AR(hν)を測定した。吸収係数AL(hν)、AR(hν)はアミノ酸薄膜に流れる試料電流iL、iRをそれぞれ測定し、それぞれの円偏光のときの入射光量IL0、IR0(実際には入射光量に比例する量として後置鏡のAu表面の光電流)で除して、AL(hν)=iL(hν)/IL0(hν)、AR(hν)= iR(hν)/IR0(hν)の式から求めた。
得られた実験結果とスウェーデンのÅgrenらのグループによる計算結果[6, 7][6]O. Plashkevych, V. Carravetta, O Vahtras and H. Ågren : Chem. Phys. 232 (1998) 49.
[7]Li Yang, O. Plashkevych, O. Vahtras, V. Carravetta and H. Ågren : J. Synchrotron Rad. 6 (1999) 708.を図3、図4に示す。
図3 フェニルアラニン蒸着膜のスペクトル。
A:吸収スペクトル。B:円二色性スペクトル。
C:Plashkevychら(文献6)による円二色性スペクトルの計算値。
図4 フェニルアラニン蒸着膜のスペクトル。
A:吸収スペクトル。B:円二色性スペクトル。
C:Li Yangら(文献7)による旋光性スペクトルの計算値。
3.考察
図2に典型的に示されているように、可視紫外領域の円二色性スペクトルには「(1)鏡像異性体の円二色性スペクトルピークは互いにその大きさ(絶対値)は等しいが、符号が互いに反対である、(2)ラセミ-アミノ酸の円二色性スペクトルの値はゼロである」という顕著な特徴がある。我々はこの特徴が軟X線領域の円二色性スペクトルについても同じく観測されるはずであるという大前提のもとに図3、図4に示す実験結果を検討した。
図3Bに示すように、L-Pheの⊿A(hν)スペクトルは約406 eVに負のピーク、D-Pheは正のピークを示した。それらとは対照的にDL-Pheはピーク構造を示さないことがわかった。L体とD体とで絶対値が等しいが符号が互いに反対であるピークを示し、DL体ではスペクトル構造を示さないというこの実験結果は上述した可視紫外域の円二色性スペクトルの特徴と同じである。このことから我々は、観測されたPheのAL-ARスペクトルに現れている構造はノイズではなく、真の円二色性によるものであると結論した。406 eVのピーク強度がL体とD体とで若干のばらつきを示したなど精度の高い結果ではないものの、これは軟X線領域における生体分子の円二色性スペクトルの初めての観測結果である。図3Cの理論計算結果[6][6]O. Plashkevych, V. Carravetta, O Vahtras and H. Ågren : Chem. Phys. 232 (1998) 49.は、エネルギーの絶対値やピークの強度に若干の違いはあるものの実験結果とほぼ同様のスペクトルの特徴を示している。これは我々の実験結果の妥当性を支持しているものと思われる。この計算がL体とD体どちらについてなされたかは文献[6][6]O. Plashkevych, V. Carravetta, O Vahtras and H. Ågren : Chem. Phys. 232 (1998) 49.に明示されていないため、符号の正負に関する議論は現段階で困難である。
次に図4Bに示すセリンの⊿A(hν)スペクトルを検討した。L-Serに対しては約540 eVに強い正のピーク、D-Serでは負のピークが見出され、これらの絶対値はほぼ等しい。このことから、このピークも図3のPhe同様に円二色性によるものと結論した。図4Aの吸収スペクトル(XANES)との対応から、540 eVピークはヒドロキシル基の酸素1s→σ*遷移であると帰属した。理論計算結果[7][7]Li Yang, O. Plashkevych, O. Vahtras, V. Carravetta and H. Ågren : J. Synchrotron Rad. 6 (1999) 708.でも538 eV付近にヒドロキシル基の酸素1sを始状態とする正の円二色性に起因するピークが2本予言されている。これらは実験結果の非対称な正のピーク構造とその符号も含めて非常に良い一致を示している。Pheの場合とは異なり、Serのヒドロキシル基は不斉炭素に直接結合していない。それにも拘らず同様の強度の円二色性が観測されたことは、カイラリティーをもつ電子状態が不斉炭素周辺のみならず分子全体に広がっていることを如実に示すものであろう。
PheおよびSerともに軟X線領域での円二色性の信号強度は0.1 %のオーダーであった。これはアミノ酸の真空紫外領域における円二色性測定結果と比べて十分の一程度の強度である。電子遷移の終状態は真空紫外線でも軟X線でも同じであることを考えてみると、この強度の差は始状態である1s電子軌道の広がりが小さいため遷移行列要素の値が小さいことに大きく起因していると考えられる。生命起源の科学という観点から、円偏光照射による不斉反応の実験が次の段階の興味深い課題として浮上する段階に達している。
謝 辞
円二色性測定が可能なビームラインの始まりを作って下さった日本原子力研究所・横谷明徳博士に感謝いたします。博士課程3年間をまるまるこの研究に投入して測定をついに完遂した立役者 田中真人博士(現 産業技術総合研究所つくば)に心から感謝します。日本原子力研究所 関西研究所 放射光科学研究センター・安居院あかね博士には、測定の方法の考案をはじめ共同研究者として多大な寄与をしていただいたことを感謝します。今回の測定で利用した、挿入光源、分光器、計測器の制御システムの構築は、高輝度光科学センターの松下智裕博士との協力により実現しました。ここに感謝いたします。また、挿入光源ID23の運用にあたって高輝度光科学センター・田中均博士、高雄勝博士、日本原子力研究所・中谷健博士、吉越章隆博士にご尽力いただいたことに感謝します。NCD実験のサポートをしていただいた日本原子力研究所・藤井健太郎博士、赤松憲博士に感謝します。最後に、この研究は田中博士とともに中川研究室の歴代の大学院生である古結俊行氏、埴岡(児玉)洋子氏、成田悟氏、金子房恵氏、大田佳美氏、北田朋氏ならびにJin Zhaohui博士らとともに行いました。皆様の協力に感謝します。本研究は、SPring-8共同利用2000B0132-NS-n、2002A0123-NS1-np、2002B0487-NS1-npおよび2003B0360-NSb-npによってなされました。
参考文献
[1]中川和道 : 放射光、13 (2000) 57-61.
[2]中川和道、安居院あかね、田中真人 :「放射光」(掲載予定).
[3]S. L. Miller : Science 117 (1953) 528.
[4]K. Yagi-Watanabe, T. Yamada, M. Tanaka, F. Kaneko, T. Kitada, Y. Ohta and K. Nakagawa : J. Electron Spectrosc. Relat. Phenom. 144-147 (2005) 1015.
[5]M. Tanaka, K. Nakagawa, A. Agui, K. Fujii and A. Yokoya : Physica Scripta T115 (2005) 873.
[6]O. Plashkevych, V. Carravetta, O Vahtras and H. Ågren : Chem. Phys. 232 (1998) 49.
[7]Li Yang, O. Plashkevych, O. Vahtras, V. Carravetta and H. Ågren : J. Synchrotron Rad. 6 (1999) 708.
中川 和道 NAKAGAWA Kazumichi
神戸大学 発達科学部 教授
TEL:078-803-7750 FAX:078-803-7761(共同)
e-mail:nakagawa@kobe-u.ac.jp
2002A0123-NS1-np
2002B0478-NS1-np
2003B0360-NS1-np
(実験責任者 中川和道)
使用ビームライン:BL23SU
シフト数:75シフト