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Volume 09, No.1 Pages 55 - 58

5. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTERS FROM SPring-8 USERS

民俗学のふるさと 福崎
The Cradle of Folklore, Fukusaki

木村 千夏 KIMURA Chika

(財)高輝度光科学研究センター 利用業務部 User Administration Division, JASRI

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 「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ」で始まる『椰子の実』の歌をご存じの方も多いだろう。島崎藤村によって明治33年(1900)『海草』という詩の一編として発表され、後年、曲をつけて愛唱された国民歌謡である。実は、この詩の材料を提供したのは、西播磨出身の「民俗学の父」柳田國男なのである。柳田國男が学生時代、渥美半島の伊良湖崎に静養に出かけたことがある。その時、海岸に椰子の実が流れ着いているのを見つけ、東京に帰ってから、島崎藤村にその話をしたそうだ。すると、「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」ということになったそうである。これについては、柳田國男の著書『海上の道』や『故郷七十年拾遺』でも触れられているが、聞き覚えのある歌が、より身近に感じられるエピソードである。

 そこで、今回は柳田國男とその出身地福崎町についてご紹介しようと思う。

 柳田國男は明治8年(1875)儒医、松岡操の六男として田原村辻川(現福崎町西田原辻川)に生まれた(明治34年、柳田家の養嗣子となる)。明治20年(1887)次兄井上通泰に伴われて上京後、歌人松浦辰男の門に入り和歌を学び、森鴎外や田山花袋らと交流し、「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激した。しかし、「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志した。東京帝大卒業後、農商務省農務局に勤めるなど官僚の職に就くかたわら、各地に残る地方習俗や伝承などに注目し、『遠野物語』など民俗学への道となる書を著して、その基礎を築いていった。大正8年(1919)官界を去り、翌年朝日新聞社の客員として全国を調査旅行し、『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』の三部作が生まれる。昭和5年(1930)同社を退職、ますます民俗学に専念、『国史と民俗学』や雑誌『民間伝承』を創刊させるなど、昭和37年(1962)心臓衰弱で死去する日まで民俗学に心血を注ぎ、研究し続けた。

 一方、福崎町はSPring-8の東に位置する。彼の生まれた辻川は佐用、前之庄を通り東西にのびる三木山崎街道と、飾磨津から北上して生野の方へ至る姫路生野街道とが交わる交通の要衝であった。彼の生家も元はその通りに面しており、様々な文化が交わるこの地で彼は幼年期を過ごした。そういうわけで、ここでは國男少年が「クニョハン」と呼ばれ、自然の中で駆け回っていた辻川地域にスポットを当てて書かせていただきたい。


日本一小さい家

 柳田國男は八人兄弟である。そのうち早世しなかった五人すべてがそれぞれの道で第一人者として活躍した。長兄の松岡鼎は故郷の小学校校長から東京帝大を経て医師となり、その後千葉県で地方自治にも貢献した。次兄の井上通泰は医師であり国文学者であり、歌に秀で明治天皇御製集の編纂にも従事した。七男松岡静雄は海軍退官後言語学の研究に大きく貢献し、末弟松岡輝夫(映丘)は大和絵の復興と後進の指導に尽力した。彼らにとって故郷辻川は、それぞれに思い出のある土地であっただろう。中でも、國男にとっては忘れられない土地であったようで、その著作の中で、「私などの田舎では」、「私の生まれた故郷では」と、たえず辻川を引き合いに出している。


 をさな名を 人に呼ばるゝ ふるさとは

         昔にかへる こゝちこそすれ


 これは彼が貴族院書記官長時代、辻川に帰省した折、少年時代を懐かしんで詠んだ歌で、生家の隣には歌碑(写真1)が建てられている。この歌からも、彼の故郷を思う気持ちが伝わってくる。




写真1 柳田國男歌碑




写真2 柳田國男生家




写真3 柳田國男・松岡家顕彰会記念館



 柳田國男は、よく自らの生家(写真2)を「日本一小さい家だ」と形容した。辻川の通りに面していた生家は、現在、背後の鈴の森神社の一角に移築されており、その東側にはそれぞれの道で大成した松岡家の兄弟を顕彰する柳田國男・松岡家顕彰会記念館(写真3)が建てられている。生家の間取りは四畳半が二間と三畳が二間の田の字形で、彼がいうとおりの小ささである。その小ささがある悲劇を生んだ。小学校の校長をしていた長兄の鼎が結婚し、その家に両親らと兄夫婦の二世帯が住むことになった。しかし、その小さい家ではうまくゆくわけがなく、一年あまりで兄嫁は実家に逃げ帰ってしまった。そのため、鼎はヤケ酒を飲むようになり、家が治まらなくなったので、松岡家は家と地所を売って鼎を東京に遊学させることにしたのである。國男少年にとっても衝撃的な事件だったろうが、しかし、こうした小さい家ゆえの悲劇が、彼に日本家屋の構造について興味を持たせ、民俗学への道の出発点ともなったのである。


鈴の森

 現在、生家が移築されている鈴の森は國男少年の格好の遊び場だったようである。鈴の森神社の境内には、拝殿にむかって右側にヤマモモの巨木(写真4)が枝を広げている。ヤマモモというのはヤマモモ科に属する常緑高木で、雌雄異株で4月ごろ花が咲き、雌株では6月ごろ赤く球形でブツブツのある果実がなる。この実は甘酸っぱく生食できる。國男少年も食べてみたいと思ったが、青くて小さい内に他の子供らに片端から取って食べられてしまうので、口には入らなかったようである。それに、不器用で、木登りを止められていて、かわりに神社の狛犬さんには何度も乗ったそうである。その鈴の森を詠んだ歌がある。


 うぶすなの 森のやまもゝ こま狗は

        なつかしきかな 物いはねども


 また、次兄の井上通泰もこの森のことを詠んでいる。


 うぶすなの 杜のやまもゝ ふる里は

        はかなきことも こひしかりけり


 彼は井上家の養子に入り、その菩提寺である福崎町西治の観音寺に、例年墓参するのを慣例としていた。

 これはその時残した懐郷の歌で、その歌碑(写真5)が同寺の鐘つき堂横に建てられている。彼ら兄弟にとって、鈴の森での思い出は格別だったようである。また、鈴の森神社の南東には在(もしくは有)井堂と呼ばれる薬師堂がある。そこも國男少年の忘れられない思い出の場所である。その床下は村の犬が仔を産む場所で、腕白大将の彼が見に行くと、いやでもその匂いを嗅ぐことになったそうで、晩年もその薬師堂のたたずまいを想い起こすたびに、うつつに嗅がれるようであると書いている。

 そんな遊びの場であったのと同時に、鈴の森は別の面も持っていた。夕方、子供が村のどこかで遊んでいると、白髪のお爺さんが出て来て、「我は鈴の森じゃ、家で心配しているから、はよう戻れよ」と親切にいわれたから帰って来たという話を、國男少年は子供心に本当のことのように思っていたそうである。こんな話をいくつも聞かされたそうで、その経験が神隠しなどの研究に結びついている。


雑学風の基礎

 柳田國男は、「辻川というような非常に旧い道路の十文字になった所に育ったことが、幼い私に色々の知識を与えてくれたように思う。」と著作の中で振り返っている。街道には魚売りの声が響き、人力車が行き交い、山からは茶や薪、鹿肉などが持ち込まれた。物売りは國男少年らに一つの世間を教えてくれる村の風物詩だった。末弟の輝夫(映丘)が絵画に興味をもちはじめたのも、立場に憩う人力車の背後の武者絵などの影響があったらしいと國男は推察している。街道が交差する場所は、文化も交差する場所だったのである。

 しかし、松岡家は國男が9歳の時に辻川の家を手放し、母の実家があった加西郡北条町(現加西市)に移り住む。だが、國男少年だけは10歳の時、父の友人である辻川の旧家、三木家(写真6)に預けられる。三木家は江戸時代の姫路藩の大庄屋で、通りに沿って続く土塀や、贅沢に丸瓦を使った屋根、まるまるとした大黒柱など、今でもその風格を漂わせている。その同家の裏手には土蔵風の建物があり、その二階八畳には多くの蔵書があった。それは色々な種類を含む蔵書で、和漢の書籍の間には謡曲の本や、草双紙類などもあり、國男少年は読み放題に読んだ。この一年ばかりの間に、彼の雑学風の基礎が形造られたように思うと書いている。また、彼の生家と柳田國男・松岡家顕彰会記念館との間を奥に入ると、神崎郡歴史民俗資料館(写真7)がある。これは明治19年(1886)に神東・神西郡役所(神崎郡役所)として建てられた木造洋館で、元は彼の生家と同様、辻川の通りに面して建っていたものを移築したものである。玄関部にギリシャ建築様式を取り入れた美しい洋館で、明治以降、地方発展の中心的役割を果たした建物である。國男少年が三木家に預けられていたのが明治18年(1885)から一年程だから、時代の影響を受けて変わっていく辻川の様子を、彼は目の当たりにしていたことだろう。こうした多様な見聞が、彼の学問の基礎を培っていったのである。

 このように、柳田國男のふるさとでの経験は、彼の学問、とりわけ、民俗学の研究に大きな影響を与えている。つまり、彼を育んだふるさとは、民俗学のふるさとでもあるといえるだろう。




写真4 鈴の森神社ヤマモモの木




写真5 井上通泰歌碑




写真6 大庄屋三木家




写真7 神崎郡歴史民俗資料館



おわりに

 今回、ご紹介した他にも、彼が稲荷信仰や狐の研究に心を寄せるきっかけとなった高藤稲荷や、ガタロ(河童)伝説が残る市川の駒ケ岩、彼の祖母が日詣りしたという生野街道はずれの地蔵堂など、柳田國男ゆかりの場所は数多くある。また、ここでは辻川について書いたが、福崎町には、沙羅の寺で有名な應聖寺や、毎年成人式の日に鬼追式が行われる神積寺、県下八景・県観光百選・近畿観光100景に選ばれている七種の滝など見所も多い。

 旧街道が交わる町、福崎は、現在、東西にのびる中国自動車道と南北にのびる播但自動車道が交わる町である。少し足をのばして「ぶらり散歩道」してみてはいかがだろうか。



参考資料

[1]柳田國男著「故郷七十年」(神戸新聞総合出版センター)

[2]「定本柳田國男集」別巻第3(筑摩書房)

[3]柳田國男著「海上の道」(筑摩書房)

[4]岡谷公二著「柳田国男の青春」(筑摩書房)

[5]「るるぶ姫路赤穂龍野」(JTB)

[6]福崎町ホームページ http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/



木村 千夏 KIMURA Chika

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[ - Vol.15 No.4(2010)]
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