Volume 07, No.2 Pages 103 - 104
3. 研究会等報告/WORKSHOP AND COMMITTEE REPORT
第4回アジア結晶学会(AsCA ’01)に参加して
Report on IV Meeting of Asian Crystallographic Association
アジア結晶学会(AsCA)はアジア地域の結晶学の成果の交換のために1990年に設立され、いままでシンガポール(1992年)、バンコク(1995年)、マレーシア(1998年)と3年ごとに会が開かれました。私は第一回から毎回参加し、有益な経験を持ちました。第4回はIT都市として世界的に有名なインドのバンガロールで2001年11月18日から21日まで開かれることこととなり、半年前から飛行機便、宿泊場所等の旅行計画を楽しみながら進めてました。しかし、9月11日の悲惨な出来事のために、私自身よりも友人、家族から渡航を中止するようにとの話がありました。私も一時迷いましたが、やはり計画を実施した方が良いと決め、友人、家族の不安に送られ、17日に成田発ムンバイ行きエアインディア航空に乗り込みました。この便はムンバイまで、バンコク、デリー経由のため16時間の長旅でした。そのため、その日には目的地には到着出来ず、空港から前払いタクシーで、市内のホテルに向かいました。深夜にもかかわらず、空港、市内には子供を含めた人の群でまずびっくりしました。5時間ほど睡眠の後、早朝再びタクシーで国内線の空港に行きましたが、搭乗するまでの携帯品の安全チェックが数回あり、緊張感が漂ってきました。しかし利用した飛行機はJet Airways Indiaでたぶん民間が経営していることと思いますがサービスは満点でした。それに比べて官経営のエアインディア航空のサービスはひどいもので、日本と全く同じです。ともかく入り口から、いろいろ経験しましたので、“郷に入ったら郷に従え”という気持ちになり、落ち着きました。
さて、バンガロールでは現地の担当者が宿泊先までワゴン車で運んでくれました。日本人の参加者の殆どは4つ星以上のホテルに滞在と聞いていましたので、私の滞在先の3つ星のホテルに対して、いささか設備の面で心配しましたが、想像以上に清潔で安心しました。早速、成田で購入しました湯沸かし器を取り出し、お湯を沸かし番茶を飲みながら、これからの出来事を予測しました。余談ですが、この湯沸かし器と手製の梅干しは下痢防止に重宝しました。その夜はオープニングセレモニーが開かれ、インド結晶学会会長のVijayan教授、アジア結晶学会会長の大橋教授、インド原子力機構のChidambaram博士、国立物理学研究所のLal博士、インド科学アカデミーのMehta博士及び現地主催者のMurthy教授が挨拶しました。特に、インドの結晶学に貢献した先達の紹介があました。確かに、“光の散乱に関する研究とラマン効果の発見”で1930年にノーベル物理学賞を受賞したRaman教授の母国であるインドは結晶学の特定の分野でも優れた成果を発表しています。事務局から、この会の参加者数の報告があり、総数410名で、国外からは151名(その内80名が日本人)で、国内からは249名でした。外国からの参加者の減少のため、国内の若手に積極的な参加を呼びかけたそうです。休憩後、国際結晶学会会長のSchenk教授が“Direct Methods for Solving Crystal Structures from Diffraction Data”という題で特別講演を行いました。翌日から3日間、午前中、招待講演、オーラル発表、午後はオーラル発表、ポスター発表が行われた。そのプログラムは日本結晶学会誌Vol.43,No.6(2001)に掲載されていますのでその詳細は割愛します。両発表を通じて感じたことはインドの若手研究者の意欲的な活動です。一年中どこかで会議が開かれている日本と異なり、インドでは国際的な会議への参加の機会はそう多くはないので、この機会にスポンサーを見つけて国外で研究したいという研究者に何人も会いました。例えば、20日の夕方、私は30分間の講演をし、そのセッション終了後に帰ろうとしましたら、若い女性研究者から話しかけられ、是非日本に招待して欲しいと言われました。私は即答は避けましたが、JSPSに外国人若手研究者招聘のプログラムがあることを伝えておきました。帰国後、既に十数回のe-mailを交換し、彼女を招待すべく、準備中です。また、学内に数ヶ月研究者を招聘する制度もありますのでそちらにも申請中です。実は私も23年前ハワイでの最初に出席した国際会議で、Moss教授(米国ヒューストン大学)に自分を売りこんだことをなつかしく思い出しました。
海抜900m程に位置するバンガロールの気候はあまり暑さを感じさせず、夜間になるとしのぎやすくなりました。会議から開放された時間には市内を散策しましたが、あらゆる所でオート力車の騒音と排気ガスさらには人の多さでうんざりしました。しかし、それにもめげず、インド人の生きるためのエネルギッシュな力は随所に見かけました。また、最近の日本人に忘れられてしまった“親切”を随所で受け、ほっとしました。会議での楽しみの一つは主催者が用意するその国の民族舞踊で、第2日目の夜楽しむことが出来ました。この他の楽しみとしてその国の料理を味わうことです。インド料理は非常に辛いカレーが主であるという先入観がありましたが、不満はありませんでした。一方で、生鮮野菜、皮を剥いた果物、アイスクリームは食べるなと聞いていましたので、帰国するまで手を付けませんでした。市内での物価は相対的に安いのですが、アルコール類、飲料水はそうでもないという印象でした。更に、私が是非訪問したいと思っていた市内の植物園はたくさんのトロピカルな花が咲いており、楽しい散策ができました。
会議が終了した翌朝、バンガロールからムンバイに移動し、神山さん(KEK)に付いて郊外のインド原子力研究所を訪問する予定でしたが、手続きの不備で旨くいかず、入所することが出来ませんでした。そのため、近くのホテルでのんびりし、ぼっとしながら時を過ごしました。ここでも官と民の違いを体験しました。インドルピーが必要になり、米国ドルを換金すべく州立銀行の支店に出向きましたが、お昼から午後2時までは休みであるという理由で断られました。そこで、オート力車に乗り、トーマスクックの支店にいきましたら、たったの3分間で換金が出来ました。さらに、ムンバイ国際空港内でもいやな思いをしました。通常どこの国でも買い物好きな日本人を相手にする空港内の免税店はきれいで、サービス満点ですが、ここではその商売をする気が無いらしく、部屋はうす暗くてしかもホコリのかぶった商品がありがっかりしました。たぶん官が経営しているのでしょう。
インドはあらゆる面でカースト制に基づく社会制度がしっかりとし、身分をはっきりと区別しているのは良い面もあるでしょうが、やはり、目線を庶民のレベルまで下げないと貧富の差は狭まらないということを強く感じました。今回の旅は9月11日の事件後のために、テロに対する警戒心を普段以上に持ち、更に何千年の歴史を持つインドという独特の慣習をもつ国でしたので、緊張の連続でしたが、人間の生きる原点のほんのすこしを見た思いで、貴重な体験をしました。いずれにしろ24日の朝、飛行機が成田空港に着陸したときにはほっとしました。第5回の会議は1994年に香港または中国で開催されることが決まり、たぶん次回は中国人のパワーに圧倒されることでしょう。
大嶋 建一 OHSHIMA Ken-ichi
筑波大学 物質工学系
TEL・FAX:0298-53-5300
e-mail:ohshima@bk.tsukuba.ac.jp
所属:
学類(工学基礎学類物性工学専攻)
大学院(修士課程理工学研究科、博士課程数理物質科学研究科)
学系(物質工学系)