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Volume 06, No.4 Pages 298 - 303

6. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTER FROM SPring-8 USERS

播磨テクノラインに沿って
Along the Harima Techno-Line

内海 渉

日本原子力研究所 放射光科学研究センター

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 いきなり私事で恐縮ですが、筆者がSPring-8に勤務しはじめて6年目になります。相生駅前の自宅から国道2 号線を経由、竜泉交差点を右折して、SPring-8まで延びる県道44号線、通称播磨テクノラインを、休日を除きほぼ毎日往復しています。あるときは、何度やってもうまくいかない実験のことを思いイライラしながら、またある朝は、利用業務部の素敵な女性達(M女史を含む。ちょっとした気遣いね。)の笑顔を次々に思い浮かべてニマニマしながら、毎日、愛車を走らせているわけです。四季おりおりに異なった美しい姿をみせるテクノライン周辺を、車の窓を全開にして走ると実に爽快で、「ひょっとしたら、自分はとっても素晴らしい職場環境で仕事しているのでは?」という錯覚さえ覚えてしまうほどです。

 さて、ここでは、相生からバスに乗ってこられるユーザーの方、あるいは最近SPring-8に移ってこられた方々のために、このテクノラインを下から登っていくルートに沿って、ちょっとした観光ガイドとしゃれてみましょう(図1参照)。地元の人からは、「知ってることばっかりじゃねえか。」と言われそうですが、そこは、まあ初めて聞くようなふりをして頂くことにして「さて、左手に見えますのが…」




図1 播磨テクノライン沿線観光マップ


1.富士と荘園

 竜泉交差点から北へしばらく走ると、道は、なめらかに左方向に曲がります。右手には、時間待ちをするトラックのための引きこみ線が、左手には、小さな池があります。前方に、頂上付近が少し剥げあがったような、形の良い山が見えるはず。正式名称は下タ山(しもたやま)、地元では、後明富士(ごみょうふじ)と呼ばれている山です(写真1)。日本全国ゴマンとある御当地富士山のひとつですが、なるほど、正面から見れば富士に見えなくもない。頂上付近が剥げあがって見えるのは、数年前に起きた山火事のせいです。

 後明富士の手前で道は再び北へ向い、小さな峠をひとつ越えたところで、視界には美しい田園風景が広がってきます。夏は稲穂が青々と繁り、秋にはコスモスが咲き乱れるところ。現在の行政区分では相生市に属しますが、このあたり一帯、中世からずっと矢野庄(荘)と呼ばれた地域であり、その大部分が京都の東寺の荘園であったところです。昔は有名なお寺は、今では考えられないほどの政治力、経済力を持っていたんですね。東寺もその例にもれず、各地に荘園を有していて、矢野庄はそのひとつでした。その東寺に、今でも矢野庄についての膨大な記録が残っていて(荘園を知るための資料として超一級のものだそうです)、荘園研究の分野では、矢野庄は非常に有名だそうな。何でも、最盛期の矢野庄は、今の相生、赤穂までひろがる広大な領地だったらしい。




写真1 後明富士


 鎌倉末期、室町のころになると、農民の自治意識が芽生え、領主や守護などと対立するようになり、各地で一揆騒動などが起こってきます。有名な播磨一揆も、まさにこの矢野庄あたりが中心になって起こったようです。テクノラインを走ると、神社の数がやたら多いことに気づかれた方もおられると思いますが、これらの神社がそれらの集会所のような働きをしました。そんな中、農民を先導して、あるいは対立して、悪党(スゴイ名前ですな)なる集団が活躍、寺田放念(てらだほうねん)なども出てきます。今の静かな田園風景からは想像しにくいですが、まさにそのころは、播磨が熱く熱く燃えていたのでしょう。

 下田の信号あたりで、右手をみると山峰が見えますが、これが光明山(こうみょうさん)と呼ばれる山です。この山上には、光明山城と呼ばれる赤松一派の城があったとされています。城主が、内海勘解由太郎(うつみかげゆたろう)という人だったとのことで、同姓のよしみで、筆者は大変興味があるのですが、あまり詳しいことはわかりません。この山へは、相生駅北側の結婚式場の脇あたりからの道が通じています。車で走行できなくはないですが、轍のひどい悪路であり、4WD車でないと、来た事を後悔するはめになります。相生駅の改札を出たところに、相生観光案内のラブリーな看板(相生産業高校美術部製作)があり、そこには、この道がハイキングコースとして描かれており、ご丁寧にも石垣まで書かれています。しかし、実際に行ってみると、石垣はおろか道案内表示のひとつもないところです。もし、SPring-8がこの光明山の上に建設されていたら、その名前はあまりにもハマリすぎですよね。


2.古代山陽道と近畿自然歩道

 ほどなく、車は真広(まひろ)交差点に到着します。何の変哲もない交差点ですが、実はここで交差している東西の道、現在の県道5号姫路上郡線は、だたものではありません。この道は7世紀から10世紀頃には、古代山陽道と呼ばれる日本で最も重要な路線の一部だったのです。「ふーん山陽道ねえ、東海道の方が大きいんじゃない?」、などと言う事なかれ。奈良平安時代の古代律令国家にとっては、京の都の次に重要な都市といえば、大陸から外交使節が上陸する九州大宰府であり、それらを結ぶ山陽道は、当時は日本の基幹をなす街道だったわけです。その古代山陽道をほぼなぞる形で、今の県道5号線が走っています。

平安時代の律令細則を定めた「延喜式」という文書などに、播磨地区の山陽道の駅が記述されており、概ね、図2のようなルートだったと推測されています。街道の中継点となる駅家(うまや)には、文字どおり当時の交通機関である馬がたくさん繋がれていたのでしょう。(駅という漢字が、馬を止めておく場所という意味からきているということは、小学校で習いましたよね。)


図2 播磨国の古代山陽道ルート


 真広交差点から竜野側へ5分程度車を走らせたところ、現在の竜野市揖西町の西端、山陽自動車道への案内看板のあるあたりが、当時、布施の駅家(ふせのうまや)があったところです。この遺跡は、1980年代に竜野市教育委員会によって、詳細な発掘調査が行われ、建物群、遺構が見つかり、「駅」と記す土器、瓦、木簡などが大量に発見されています。それらから推測するに、礎石瓦葺の絢爛豪華なものであったらしい。意外なことに、全国で約400あったとされる駅家のうち、遺跡が駅であるとして確定的に発掘されたものは、この布施の駅家だけとのこと。発掘調査後は、遺跡は埋め戻されてしまい、現在付近には解説の小さな看板が立つのみですが、最近、少し手前の新しい自動車道路の建設現場となっているあたりからも、大きな寺院跡が見つかっています。この県道5号線を通ってSPring-8に通勤しておられる方も多いと思いますが、その昔、多くの都人や外国使節団がここを通っていたと想像すると、とても愉快な気分になります。栄華を誇ったこの道も、しだいに南側のルート(現在の国道2号線あたり)が開けると、そちらが山陽道(西国街道)として利用されるようになり、古代山陽道は、さびれていくことになります。

 さて、テクノラインに戻って、道を進めましょう。やがて、前方には、感状山(かんじょうさん)の立派な山なみが見えてきます。目をこらすと、頂上付近に城の石垣の一部を見つけることができるでしょう。道路は、この山をさけるように、わずかに右カーブし、榊方面への分岐三叉路にでます。この三叉路のところに、近畿自然歩道の大きな案内板があります(写真2)。近畿自然歩道は、平成9年度から13年度にかけて整備がすすめられてきた、近畿を中心とした2府7県にまたがる路線延長3,258kmにわたる長距離自然歩道です。このあたりは、従来は山陽自然歩道として親しまれていたものを、新たに近畿自然歩道の一部としてリニューアルしたものです。ごく最近整備し直されただけあって、コースはあちこち手入れされて非常に歩きやすく、いたるところに道標が設置されており、迷う事はほとんどありません。

 この案内板のあるところは、東西への2つのルートのスタート地点となっています。東は、榊(さかき)、釜出(かまで)の集落を経て山中に入り、数々の伝説を持つ菖蒲谷(しょうぶだに)から、山上にある池をめぐり、城山(きのやま)を縦走して、竜野紅葉谷に降りるルート(15.7km)。おそらくこの自然歩道の山陽路ルートの中でも1、2を争うきついルートですが、実にすばらしい自然を堪能できます。城山は、次項で述べる嘉吉(かきつ)の乱で赤松氏滅亡の舞台となった城山城(きのやまじょう)があったところです。逆方向の西へ伸びるルートは、平家の落武者伝説のある小野豆(おのず)高原を訪ねる道で、出会う人も少なく、気候のいい時期の散策にはもってこいです(9.9km)。




写真2 近畿自然歩道案内板


3.赤松氏と感状山城跡

 さて、感状山城です。播磨地区の史跡や観光地を訪れる際に、前もって知っておくと、より面白みが増す歴史事項が3つあるように思います。赤松一族の興亡と秀吉の播磨出兵、そして赤穂浪士討ち入り。他の2つに比べると、赤松氏のことはあまりポピュラーとは言えません。同時代に活躍した足利尊氏、新田義貞などは、誰でもその名を知っているのに比べて、赤松は全く人気がない。かく言う筆者もこちらに移ってくるまで、赤松のことはほとんど知りませんでした。戦前は、後醍醐天皇をだました逆賊とのレッテルまで貼られていた時代もあるらしい。しかし、この地域では赤松はスターです。なにしろ、SPring-8のある上郡町のシンボルは、円心くんとエイトちゃんですからね。(図3。エイトちゃんが、何を表しているのかの説明は不要でしょう。)




図3 上郡町マスコット 円心くんとエイトちゃん


 円心くんとは、赤松の事実上の開祖、赤松則村円心(あかまつのりむらえんしん)のことで、上郡の悪党から勢力をのばし、白旗城(しらはたじょう)を中心にして播磨を平定した守護です。足利尊氏に味方し、室町幕府では、三管領四職(さんかんれいししき、昔受験の時に覚えましたね。)の一翼として重要な位置をしめるようになり、赤松氏の栄華が始まります。しかし、そのひ孫の赤松満祐(みつすけ)は、時の将軍足利義教(あしかがよしのり)と対立し、これを殺してしまう。将軍を殺してただで済むはずはなく、満祐は城山城にもどったところを幕府軍に討たれ、ここに赤松氏はいったん滅びます(嘉吉の乱1441年)。(この、いったん、というのが意味ありげです。)

 感状山城は、円心の息子赤松則祐(のりすけ)が作った城ということになっており(違うという説もある)、もともとは、瓜生城と呼ばれていました。戦力を回復するため九州にいったん下った足利尊氏を討つため、後醍醐天皇の命を受けて西へ進もうとする新田義貞軍を、播磨の地で赤松が白旗城とこの城とに篭って迎え撃ち、その進軍をはばみました。この戦功によって、赤松は尊氏から感状(感謝状ですな)をもらい、それ以降、この城を感状山城と呼ぶようになったと言われています(写真3)。




写真3 感状山城復元模型(相生市立歴史民族資料館蔵)


 この感状山へは、登山道(という程のことはないですが)が整備されていて、ふもとから30分程度で、物見岩に着きます。見張り場所として使われていたのでしょう、視界は大きく開け、天気が良ければ、瀬戸内海まで見通せます。次いで、三の曲輪、ニの曲輪と過ぎ、一部崩れた石組みを駆け上がると「史跡相生市感状山城跡」と書かれた標柱の立つ本丸跡(305m)に出ます。城跡には、多くの石垣がまだ残っていますが、その多くは、赤松氏が築いたオリジナルのものではなく、後の浦上氏か宇喜田氏が築いたものであるようです。地元にいるとその値打ちはあまりわからないのですが、城マニアには非常に魅力のある城らしく、筆者が何度か登ったときにも、九州とか栃木から来たという訪問者が、嬉々として写真をとっていました。

 感状山のふもとには、羅漢の里(らかんのさと)があり、深山幽谷の岩屋の中に多くの素朴な石仏が並んでいます。秋には、様々な工夫をこらしたユーモラスな創作かかしが並ぶ「もみじ祭り」が行われるところでもあります。

 感状山城には、落城にまつわる伝説があります。この城が攻められ、もはや落城濃厚となったとき、城内にいたひとりの美しい姫がひそかに城を抜け出し、ふもとの民家に逃げ込みました。この家ではこの姫をかくまい、大事に育てましたが、その後、この付近では、代々美人が多く生まれるようになったとのこと。以前、SPring-8にこのあたり出身の美人姉妹が勤務しておられましたが(アサヒなんとかという会社の関係者らしい)、この話をしたところ、「そうか、私の美しさは歴史に裏付けられていたのね。」とヌカシおった(妹のほうです)。


4.磐座神社と背後の奇岩をいだく山々

 近畿自然歩道案内板のすぐ近くに、樹齢600年と推定される見事な巨木があります。県指定の天然記念物「矢野の大ムクノキ」です。約250年前、落雷を受けて中心の太い幹が消失し、その後、樹高20mを超す横3方に延びた枝々が異形をはなち、見るものを圧倒します。テクノラインを通る車の排気ガスのせいか、近年樹勢が弱く、樹木医の手当てを受けています。今春、SPring-8ガーデニングクラブの皆さんがこの木の苗木をもらい受け、SPring-8構内への植樹が行われました。順調に育てば、100年後には今の大ムクノキと同じ大きさにまでなるそうです。

 大ムクノキの後方に、テクノラインをはさんで感状山と向かい合う形で、天狗岩と呼ばれる大きな一枚岩を抱いた権現山(ごんげんやま)がそびえており、そのふもとに小さな社をもつ磐座神社(いわくらじんじゃ)が鎮守しています(写真4)。磐座というのは、もともと神の鎮座する大岩をさすそうで、御神体として背後の岩山を祀っていることが名前からも明らかです。小さな境内には、忠臣蔵の絵馬などもありますが、損傷が激しいのが残念。磐座神社は、子安の木(コヤスノキ)の群生していることでも有名です。コヤスノキは、トベラ科の常緑低木で5月ごろ淡黄色の花をつけ、秋には直径1cmあまりの球形の果実をつけます。兵庫県と岡山県のごく限られた地域の神社や寺の境内林などに生えている珍しい木です。また磐座神社は、知る人ぞ知る紅葉の名所で、その時期の晴れた日の早朝などに訪れると、誰もいない境内が色とりどりの落ち葉で敷き詰められており、その情景は息をのむほど美しい。




写真4 磐座神社と権現山


 権現山の天狗岩は、まさに奇岩というにふさわしく、連日眺めながら、頂上に立ってみたいと思っておられる方も多いのではと思いますが、実は、この山には登ることができます。磐座神社の境内の柵をのりこえ、裏山を登っていくと、やがて、踏みしめられた小道が現れ、そのまま権現山のひとつ南側の峰に登るルートになっています。この山は竜王山と呼ばれており、頂上には、下からでは見えない大きな岩が横たわっていて、その巨岩に押しつぶされんばかりの位置に、小さな小さな祠が祀られています。磐座神社の奥の院です。この祠をやりすごして、さらに峰沿いをヒーヒー言いながら下り登りすると、権現山の頂上にたどり着くことができます。

 権現山のすぐ北側に、高巖山(たかいわやま)があります。テクノラインから見て、2つのコブか角のように見える岩が印象的です。この高巖山にも登ることができます。裏手側(榊側)の斜面に、頂上にとりつくルートがあります。ただし、まったく整備などされていないケモノ道。先人が残してくれた木々にくくりつけられたテープをたよりにして登っていくと、2つの巨岩の間には、思いのほか広い平らなスペースがあり、テクノラインや反対側の榊方面が眼下に見下ろせます(写真5)。少々危険であまりお薦めできませんが、奇岩の上にも立つことができ、ちょっとした征服感を味わえます。(テクノラインからこの山を見上げたときに、岩の上に人が立って手を振っていたら、ちょっとびっくりするでしょうけどね。)高巖山から尾根沿いに権現山まで縦走して、磐座神社に下りることもできますが、上級者向きで、特に草木が生い茂る夏場は避けたほうがよさそうです。




写真5 高巖山頂上


5.三濃山

 高巖山が見えるあたりから、三濃山トンネルに向かうまで、テクノラインはいよいよ本格的な登り坂となります。途中、能下(のうげ)の集落があり、SPring-8関係者が寄付をつのって建てた、狸供養の信楽焼き(狸塚)が立っています。毎日のように交通事故の犠牲となっている狸クンたちの冥福を祈って、いっそうの安全運転を誓いましょう。

 坂の勾配が最もきつくなってきたあたり、左手側に、犬塚の桜の樹が見えてきます。ソメイヨシノよりは少し遅れて咲くようですが、それよりわずかに濃いピンク色の花が咲き誇る姿は、見事の一言(写真6)。毎年この時期になると、1日ごとにこの桜の開花進行具合を確認するのが、筆者の大きな楽しみになっています。この桜の根元には、五輪塔があり、犬塚のいわれを記した案内板が立っています。なんでも、その昔この地方の開祖とされる秦河勝(はたのかわかつ、この人もこの地方の史跡によく出て来る名前。聖徳太子に仕えていたが、その死後蘇我入鹿との政争に敗れ、この地に流れてきた。)が、このあたりを狩猟に来ていたとき、後ろの木から大蛇が河勝公を襲おうとしたのを、連れていた犬が気づき、吠えて主人に知らせようとしたのに、河勝公はそれがわからず、吠えつづける犬を切り捨ててしまった、という逸話があるらしい。説明看板の挿絵もなかなかのもので、一見の価値アリです。




写真6 犬塚の桜


 三濃山は、その秦河勝によって開かれたとされており、彼の子孫によって、平安時代に求福教寺(ぐふくきょうじ)が建立され、山岳仏教の拠点となりました。11世紀頃には、三濃千坊と言われるほどの隆盛をみたそうですが、現在では、ご本尊の千手千眼観世音菩薩が祀られた本堂だけがひっそり山頂にたたずんでいます。この求福教寺には、河勝公ゆかりの文福茶釜(ぶんぷくちゃがま)が伝わっています。なんじゃそら?という感じですが、このユーモラスな名前の鉄瓶は、今も現存し、相生市立歴史民族資料館で見る事ができます。

 この三濃山頂には、昭和30年代まで、三濃山村という集落がありましたが、あまりにも交通の便が悪く、廃村やむなきに至ったようです。当時の人が残した棚田や墓地が荒れたまま放置され、場所によっては、竹林に覆い尽くされています。三濃山頂へ登るルートとしては、テクノ側の第2貯水池から入る道、上郡金出地から登るルート、犬塚の桜の少し北側から登るルートがあります。また、南の羅漢の里方面へ下りる道が2本(尾根をつたって感状山へ抜ける道と鍛冶屋川沿いに下る道)があり、絶好のハイキングコースになっています。毎年秋には、このルートを通る集団ハイキング会が催されていますので、機会があったら参加されるのも一興でしょう。


 さて、テクノライン沿いの名所旧跡めぐり、いかがだったでしょうか。へーっ、結構いろんなものがあるじゃん、と思っていただくことができれば、この原稿の目的は達したことになります。昔の人にとっては、たいへんな秘境だった三濃山も、現在では、テクノラインの開通であっという間に到着。三濃山トンネルを過ぎると、もうそこは、テクノポリスです。さあ、今日もお仕事がんばりましょう。(図面作成に協力してくださった金子洋さんに感謝します。)



内海 渉 UTSUMI Wataru

日本原子力研究所 放射光科学研究センター

〒679-5148 兵庫県佐用郡三日月町光都1-1-1

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[ - Vol.15 No.4(2010)]
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