Volume 06, No.2 Pages 138 - 143
6. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTER FROM SPring-8 USERS
赤穂の祭り
Festivals in Ako
赤穂義士祭
SPring-8にやって来るまでは播州についての筆者の知識は、赤穂義士と赤穂の塩ぐらいしかありませんでした。西播磨に住み始めて兵庫県の情報が入ってくるようになってから、筆者の生まれ育った信州長野県と
播州・但馬兵庫県との間には意外な接点があることを知りました。
最初に驚いたのは、出石(但馬)に蕎麦(そば)を食べに行ったときでした。関西ではうどんやそうめんが麺類の主流で、それに比べると蕎麦は納豆ほどではないにしてもなんとなく蔭の薄い存在です。それにも拘わらず出石という有名な蕎麦どころが存在することを不思議に思っていました。しかし、その疑問はあっさり解けました。出石蕎麦のルーツは信州上田にありました。江戸中期、仙石政明が国替えにより信州上田藩から出石藩に藩主として赴いたとき、上田の蕎麦職人を連れてきたのが出石蕎麦の起源だそうです。出石蕎麦は信州蕎麦の流れを汲んでいたのです。竜野藩の最後の藩主を勤めた脇坂家も国替えにより信州飯田藩より移ってきています。信州飯田藩に生まれ脇坂家に仕えた塩山源蔵は、藩主の国替えにともなって竜野藩に移り、後に赤穂藩浅野家家臣赤垣氏の養子となり、浅野内匠頭に仕えました。これが、映画・テレビドラマ・芝居・講談・浪曲・落語・小説・歌謡曲などの忠臣蔵「赤垣源蔵徳利の別れ」の場面でお馴染みの赤穂義士の一人赤垣源蔵の略歴です。
「赤垣源蔵徳利の別れ」は様々に脚色されて数多くのバージョンが存在しますが、大筋は以下のようなものです(補足:筆者のうろ覚えに基づく脚色も含まれています)。
源蔵には竜野藩脇坂家に仕え江戸で任にあたっている実兄がいました。討ち入りの直前、大酒飲みの源蔵は、雪の降る中、饅頭笠に雨合羽という出立ちで、徳利(俗にいう源蔵徳利)を下げて兄夫婦の家を訪ねた。密かに今生の別れを告げるつもりであったが、生憎兄はまだ帰宅していなかった。嫂は仮病を使って源蔵に会おうとしなかった。なぜなら、貧乏浪人の身であった源蔵は、酒の無心のために度々兄の家を訪ねていたからです。仕方なく源蔵は、応対した下女に兄の紋付き羽織を拝借し、それを衣桁に掛け、その前に座し、西国の大名に奉公することが決まり近々旅立つ故別れの挨拶に参った旨紋付き羽織に向かって報告した後一人盃をあおり、怪訝な顔をする下女を後目に兄の家を辞した。帰宅した兄はその話を聞いたとき、吉良邸討ち入りが実行されるのではないかという予感を懐いた。吉良邸討ち入りの翌朝、そのニュースはたちまち江戸中に伝わった。本懐を遂げた赤穂義士の一行が近くを通るというので、兄はその中に源蔵がいるかどうか確認して来るように家来に命じた。「もしも、いなかったら黙って戻り耳元で小さな声で告げてくれ、しかし、源蔵がいた時には、『赤垣源蔵様がおられました』と近所中に聞こえるような大声で叫びながら帰ってきてくれ」と。
日本人気質にぴったりのこの物語は、後世の人によって脚色された部分が多く、史実とはかなり食い違っているようです。先ず、「赤垣」という姓は「赤埴(アカバネ)」の読み間違えらしい。次に、源蔵が大酒飲みであったというのも作り話で、実際は下戸であったらしい(補足:赤穂義士の一人、堀部安兵衛も飲んべえとして有名ですが、実際は大酒飲みではなかったそうです)。さらに、源蔵には竜野藩脇坂家に仕える実兄はいませんでした。それではこの物語は全くの作り話かというと、そういうわけでもなく、もとになる史実はちゃんと存在します。源蔵には江戸に住む妹がいました。討ち入りの前々日、源蔵は暇乞いをするために妹婿の家を訪れています。妹の舅は、源蔵が浪人の身分にもかかわらず立派な身なりをしていることを快く思わず、赤穂浪士は皆腰抜けだと非難しました。しかし、源蔵は腰抜けであることを謝り、遠くに旅立つので別れの挨拶に参りましたと静かに答えました。源蔵は普段は飲まない酒を少し飲み、妹の嫁ぎ先を辞しました。後日、討ち入りを知った舅は、そうと知っていればご馳走をしてあげたものを、と悔やみ悲しんだという。[参考資料[1]による]
赤穂市では、赤穂義士の吉良邸討ち入りの日、12月14日に赤穂義士祭が開催されます。赤穂義士祭はパレードの祭です。赤穂城前の大手前交差点から播州赤穂駅前までの市中約1.5kmの道程を様々な種類のパレードが行進します。鼓笛隊や音楽隊などの一般パレードの後、忠臣蔵パレードが始まります。参勤交代を古式にのっとり再現した伝統的な大名行列、元禄時代という太平の世に咲いた町人文化を彷彿させる艶やかな衣装の婦人達による元禄義士おどり・赤穂おどり、各義士に扮装した義士伝行列、映画・テレビ・舞台でお馴染みの忠臣蔵の名場面を表現した山車、本懐を遂げた四十七士が芝高輪の泉岳寺に引き揚げていく様子を再現した義士行列など。こども達だけによる大名行列(写真1)、義士行列(写真2)もあります。沿道はどこに行っても見物客でいっぱいです。奴同士が毛槍の投げ渡しに成功したときは、沿道から拍手が沸き起こります。特にこども奴のときは掛け声もかかります。なお、忠臣蔵パレードの初っぱなにハーレーダビッドソンの行進があったことを付記しておきます。義士祭には似つかわしくない出し物と一瞬思いましたが、サイドカーを従え電飾で派手に飾り立てた各車各様のハーレーダビッドソンが独特な低いバイク音を響かせながら何十台も目の前を2列縦隊で低速行進していくと、わけもなしに身震いするような感動を覚えます。ハーレーダビッドソンにまたがったライダーの誇らしげな姿は、本懐を遂げ泉岳寺に引き揚げていく四十七士の勇姿に重なります。
写真1 子供大名行列
写真2 子供義士行列
300年前に起きた仇討ち事件が、赤穂義士や忠臣蔵という名の美談として圧倒的な支持を受けながら、小説やドラマを通じて脈々と日本人の心に受け継がれています。時代がいかに変わろうとも、また、日本人の価値観がどんなに変わろうとも、赤穂義士祭は伝統行事としていつの世までも伝承されていってほしいと願わずにはおられません。
坂越の船祭り
赤穂市の中心から少し離れたところに坂越(さこし)という地区があります。波静かな坂越湾に面した港町です。古くから海運の要地として栄えた歴史ある町です。造り酒屋の酒蔵や旧坂越浦会所など往時を偲ばせる古い町並みも保存されています。歴史的な景観もさることながら、特筆すべきは、三百数十年以上も前から続いているという、瀬戸内三大船祭りの一つ大避(おおさけ)神社船祭でしょう。毎年10月第2土曜日(宵宮祭)と日曜日(本宮祭)に開かれるこの祭りは、船渡御(ふなとぎょ)という古式豊かな神事を中心とした壮大にしてかつ優雅な祭りで、国の無形民俗文化財に選択されています。 大避神社の神霊が生島(いきしま)の御旅所(おたびしょ)に船で御幸し、島での儀式の後、再び船で神社に還幸するという、陸から海、海から島、島から海、そして海から陸へと舞台が移る壮大な祭りです。生島は坂越湾に浮かぶ無人の小島ですが、古来大避神社の神域として人の立入が禁止されてきたため原生林が保存され、島全体の樹林が国の天然記念物に指定されています。
本宮祭の海上の祭りは、六尺褌に赤襦袢姿の12名の若衆が漕ぎ手となって漕ぐ櫂伝馬(漕船)2艘が坂越湾を周回することから始まります。櫂伝馬の乗組員は神社でお祓いを受けた後、生島寄りの漁港から船を漕ぎ出します(写真3、4)。船の艫(とも)に、派手な祭り衣装とたすきで女装した男性が1名乗り、独特の掛け声を掛けながらシデ(=3色の色紙を竹の棒にくくり付けた采配)を振って漕船の指揮をとります(この船は女人禁制とのこと)。また、太鼓叩きが激しく太鼓を打ち、漕ぎ手の士気を鼓舞します。この周回は休憩の間に酒で景気をつけながら定期的に何回か繰り返されます。厳かな神事の前奏のようにも見えるし、やがて迎える出番に備えて士気の高揚をはかっているようにも見えます。
写真3 櫂伝馬組の出陣式
写真4 櫂伝馬の出発
一方、大避神社の方では、祭礼関係者が神輿に神霊を遷す神事や古式にのっとった奉納などの諸儀式を執り行った後、渡御(とぎょ)が始まります。警固を先頭に猿田彦(=天狗の面をかぶっています)・獅子・頭人(とうにん)・神輿などそれぞれの役割を担った関係者一行の行列が、神社から東の浜まで参道を練り歩きながらゆっくり下ってきます。頭人は氏子の代表であり、烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)という古来伝わる装束をまとっています。東の浜に着いた獅子は、浜の前でその舞を奉納します。
神輿が到着するまで東の浜では、2艘の櫂伝馬が、沖から岸に向かって全速力で漕いできて岸の直前で迂回するという勇壮なレースを幾度となく繰り返します。興奮して宙返りをしながら海に飛び込む若衆もいます。
神輿が到着すると、いよいよ祭りの最高の見せ場になります。勇壮さを競い合う荒々しい海の若衆組と、厳かで優雅な渡御組とが東の浜で融合し一体となります。法螺貝の音を合図に、褌姿の櫂伝馬若衆24人がバタ(橋板)掛けを始めます。バタは神輿を神輿船に載せるための橋板のことです。7枚のバタを1枚ずつ神輿船に掛ける作業を若衆が行うわけですが、血気盛んな海の荒くれ男たちが素直に掛けるはずはありません。作業を引き延ばそうと悪戯の限りを尽くします。全員でバタを踏みつけたり、放り投げたり、大勢で頭の上まで持ちあげたバタの上に人が乗って踊ったり、縦に立てたバタに人がよじ登ったり、曲芸まがいの悪戯をします。また、若衆がバタを頭の上に掲げたまま船とは反対方向に逃げ出そうとして観客の集団のなかに突っ込んできます(写真5)。
写真5 櫂伝馬組若衆のバタ掛け
観客たちはそうはさせまいと、バタに手を掛けて必死に押し返します。バタが筆者の目の前に来たときは、首にカメラをぶら下げているのも忘れて夢中で押し返しました。押し返された若衆は仕方なくバタを船に掛けます。傍若無人の振る舞いをする若衆と、それを制止しようとする観客と、その光景を静かに見守る神社関係者たちの三者が、結局バタ掛け作業を遂行する若衆の従順な行動によって融合します。この祭りの醍醐味を感じる一瞬です。
7枚のバタ掛けがようやく完了すると、バタの橋を渡って神輿が神輿船に遷されます。ここから舞台は海上に移り船渡御が始まります。2艘の櫂伝馬を先頭に、獅子船、頭人船5艘、楽船(=雅楽の奏者が乗船し雅楽が演奏される)、神輿船(御座船)、警固船(議員船)、歌船(=歌船組が乗船し船歌を奏上する)の計12艘の和船がこの順に綱で繋がれ船団を形成します。船団は一列縦隊となって岸に沿ってゆっくり西方に進み、坂越湾の沖で東に転じ、御旅所生島に向かいます(写真6)。超高速化のこの時代に、手漕ぎ和船のなんと悠長なことか。時間の流れとは一切無縁であるかのように、和船の長い行列が遅々とした船足で移動していきます。船団が生島に着御すると、神輿が御旅所に遷され、着御祭が執り行われます。しかしながら、すでに夕暮れ時でもあり、対岸にいる筆者には島で行われる儀式の仔細はよく見えませんでした。参考資料[2]によると、獅子の舞が奉納され、神事が執り行われた後、酒宴が催されるという。
ちょうどこの時点で、筆者は所用のため、後ろ髪を引かれる思いで坂越を去りました。これ以降の祭りの様子については、参考資料[3]に基づいて記述します。
生島での祭礼が終わる頃にはあたりはすでに夕闇に包まれます。合図の法螺貝が吹かれると、一旦東の浜に戻っていた櫂伝馬が神輿船を迎えに再び生島に向かいます。神輿を神輿船に遷すと、還幸の船渡御が始まります。頭人船を除いた船団は、東の方向に湾内を進み、途中でUターンして海岸沿いに東の浜に戻ります。頭人船は別経路をとり、近くの浜に上陸したのち陸路で東の浜に戻ります。各船は提灯を灯し、また、防波堤の各所でかがり火が焚かれ、光と闇の幻想的な光景のなかで還幸は行われるという。東の浜に到着すると、再び若衆によるバタ掛けが行われ、神輿が船から陸に遷されます。神輿が神社の拝殿に安置され、最後の神事が執り行われてこの船祭りは終了します。
写真6 夕暮れ近くに行われる船渡御
筆者は若い頃、高山祭りや東北地方の祭り(青森ねぶた祭り、秋田竿灯祭り)を見に行ったことはありますが、それ以来祭りにはことさら関心をもつこともなしに生きてきました。しかし、原稿を書くために見に行くことになった坂越の船祭りは、思いがけず、久しく忘れていた祭りの感動を呼び覚ましてくれました。坂越の船祭りには、豪奢な山車や荒々しく練り合う車楽(だんじり)もなければ、騒々しいほどの鳴り物や熱狂的な踊りも怪我人の出るような喧嘩もありません。奇を衒う出し物もなければ、ばか騒ぎや派手な装飾もありません。若衆によるバタ掛けの一時を除けば、すべてが厳かな雰囲気のなかでゆったりとした時の流れにのって進行します。かくも静かな祭りがなぜ見る者の心を惹き付けるのでしょうか。筆者にとっては、坂越の船祭りは、神道であるからとか仏教であるからとかいった宗教の色合いを全く超越した、陸と海と島を舞台とする壮大な野外劇に見えました。生まれて、生きて、そして死んでいく人間の一生を見ているような。
次回こそは、夕闇のなかかがり火が焚かれる還幸の船渡御まで必ず見届けようと心に決めています。
本宮祭の日、筆者は正午前に坂越に着きました。驚いたことに、メイン会場である東の浜周辺には人影が全く見当たりませんでした。祭りは本当に実施されるのだろうかと疑念を懐くほど町は静まりかえっていました。時間が多少早いとは言え、祭りらしい雰囲気を感じ取ることができませんでした。フィルムを買うために近くの商店に入ったとき、店のおばさんに人影が見当たらない理由を尋ねてみました。以前は観客も多く賑やかであったが、年々歳々観客が減ってきた、という答えが返ってきました。
おばさんの寂しげな口調が印象的でした。さすがに、バタ掛けが始まるころになると東の浜やその周辺に観客が集まってきました。しかしながら、祭りの規模の大きさに比べて観客数があまりに少ないのは全くの予想外でした。櫂伝馬の漕ぎ手の中には坂越を離れた人もいて、この祭りのために帰省してくるとも聞きました。観客数が少ないという印象があまりにも強かったために、継承者不足から伝統的な行事の維持が徐々にむずかしくなっていくのではないかとつい悲観的な想像までしてしまいました。
自然界には「熱力学第二法則」と呼ばれる法則があります。これは「熱は高温部から低温部に流れ、その変化は不可逆である」という経験則を科学的に厳密に法則化したものです。エントロピーという熱力学的状態関数を導入すると熱力学第二法則は「物質のエントロピーは断熱変化によって減少することはない」という表現になります。いわゆる「エントロピー増大の法則」であり、物質の断熱不可逆変化はエントロピーを増加させることを意味しています。室温の高い部屋と室温の低い部屋の間の仕切りを取り除くと、高温部屋から低温部屋に熱が移動し、やがて両部屋の室温は等しくかつ全体が一様になり、それ以降変化は起こりません。この不可逆変化において空気のエントロピーは増加します。この両部屋が断熱壁で囲まれていたならば、確実にこの不可逆変化が起こり、逆戻りする変化は絶対に(厳密に言えば、限りなく100%に近い確率で)起こり得ない、ということを「エントロピー増大の法則」は宣告しています。(補足:統計力学によりエントロピーは分子というミクロの観点から意味づけられています。ある一定の平均値をもつマクロの状態は、異なった多数のミクロの状態を取り得ます。エントロピーは、一定の平均値の裏に隠れているミクロの状態の数あるいはミクロの状態の曖昧さの尺度として解釈されます。エントロピーの概念はさらに情報理論にまで拡張されています。)
部屋全体の温度も密度も一様になった状態を俗に「熱死」と表現することがあります。「熱死」という言葉は、この宇宙のエントロピーが増大していき、宇宙はやがて生命体はおろか銀河や星さえも存在しない、ただ原子が一様に空間分布するだけの終末をむかえるだろうという悲観的な意味を含んでいます。
社会現象は自然現象とは本質的に異なりますので、社会現象にエントロピーの概念を持ち込むことができるかどうか、また、仮に持ち込めるとしても社会現象においても「エントロピー増大の法則」が成り立つかどうか、筆者にはわかりません。しかしながら、「エントロピー増大の法則」は、社会現象でもその法則が成り立つのではないか、と思い込ませてしまうほどのカリスマ性を秘めています。「エントロピー増大の法則」という教祖に洗脳された者が、「エントロピーの眼鏡」を通して社会現象を観察すると、多様性・特異性・局所性・秩序をもった状態が一様に平均化された状態「熱死」へと変化するという「エントロピー増大の法則」の特徴的な現象に類似した社会現象を見いだすことができます(ただし、飽くまでも外見上のアナロジーです)。たとえば、国内各地の方言が消え失せて、国内全体が標準語一色になるような現象です。また、国連環境計画(UNEP)の最近の報告によると、グローバリゼーションによって世界の人々が画一的な西欧化された生活を営むようになったため、2500種以上の言語が絶滅の危機に瀕しているという。標準語一色に染まった状態は文化的「熱死」とも解釈できます。エントロピーの概念から単純に類推するならば、文化的「熱死」は好ましい状態とは思えません。
このような悲観的な見方が常日頃の筆者の思考の背景にあったために、坂越の船祭りも文化的「熱死」に向かう社会現象の途上にあって、やがて消えてしまう運命にあるのではないかと、祭りを見ながらつい悲観的な想像をしてしまいました。しかし、世の中の現象すべてが文化的「熱死」に向かう運命にあるわけではありません。人間はその意志によって社会現象の流れを変えることができます。たとえば、連邦国家が多数の民族国家に分裂したり、行きづまった中央集権主義の打開策として道州制なる地方分権制が提案されたりするなど、文化的「熱死」とは逆の方向に変化する社会現象もあるからです。当然のことながら、人間はその意志によって伝統的文化を保護することもできます。坂越の船祭りもやがて消えてしまう運命にあるのではないかという不埒な悲観的想像も、単なる一時的な杞憂にすぎません。
エントロピーなどという突拍子もない概念を持ち出し延々と記述したのも、また、坂越の船祭りがなくなってしまうのではないかという不埒な表現をしたのも、この貴重な船祭りが絶えることなく永遠に続いてほしいという筆者の切望の裏返しであり、一重に坂越の船祭りに寄せる筆者の愛着心のなせる業ですので、祭り関係者の方々にも読者の方々にも誤解のないように一言申し添えておきます。
最後に、坂越船祭りや神社に関する資料を提供してくださった大避神社の宮司さん、ならびに、宮司さんと連絡をとってくださった住所まゆみさん(宮司さんの遠縁)にこの場を借りて御礼申し上げます。
参考資料
[1]実証義士銘々伝(大石神社社務所発行、平成2年5月)
[2]坂越の船祭り(赤穂市立歴史博物館発行、平成12年4月)
[3]大避神社パンフレット(大避神社社務所発行)
付録(インターネットで得た情報)
雅楽師として有名な東儀秀樹氏が楽船に乗って雅楽の演奏をしたことがあるという。そもそも、東儀家の先祖は大避神社の祭神として祀られている秦河勝(聖徳太子に仕えた人物)とのこと。
東儀氏は彼のホームページの中で、ひちりきを演奏しているとき、感動のあまり自然と涙があふれてきた、と書いています。
「東儀秀樹ホームページ」より。出典は「MILLION1998年1・2月号」
尾崎 隆吉 OZAKI Takayoshi
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