Volume 03, No.6 Pages 55 - 59
7. ユーザー便り/A LETTER FROM SPring-8 USERS
CERN小史 −ビッグサイエンスの運命と技術と科学の相関−
A Short History of CERN -Ideal of Big-Science and Relationship between Engineering & Science-
CERNは、ヨーロッパ科学の栄光を取り戻すとともにヨーロッパ統合の夢をのせてスタートした。構想から建設そして物理へとそれぞれの段階で多くの試練を乗り越えて現在の名声を勝ち取った。科学と技術と政治がダイナミックに相互作用した現代ビッグサイエンスの典型である。CERNは、ヨーロッパ放射光施設(ESRF)などその後の共同研究所のモデルとなった。
CERN研究所全景(CERN提供)
○技術は科学の前提であり成果
17世紀の科学革命は、望遠鏡と印刷技術が飛躍のもととなった。望遠鏡は、神の領域であった宇宙を世俗化し、近代科学の方法論として実験と観測の重要性を確かなものにした。印刷技術は、人類の知の蓄積を記録継承し流通を容易にし、科学が人間社会に大きな影響を与える基礎となった。20世紀に入ると、アメリカ・カリフォルニアのウィルソン山とパロマ山天文台を頂点とする大反射望遠鏡の時代を迎え、従来の位置天文学に革命がおこり天体や宇宙の内部構造を解明する宇宙物理学が成立した。さらに第二次大戦後、電波やX線を測定する望遠鏡が開発されビッグバンや宇宙の進化に関する学問が発達した。
極微の世界では顕微鏡が生物学の近代化に大きな役割を果たした。なかでも電子顕微鏡は、20世紀最大の科学成果の一つであるDNAの二重らせん構造に決定的な証拠をあたえた。こうして1950年代に分子生物学が成立し、生物学は数千年にわたってつきまとわれた生気論を払拭し、物理学と化学に肩を並べる精密科学に転換した。化学も同じように、19世紀初めリービッヒやブンゼンたちが開発した化学分析技術によって錬金術から脱出できた。とくに、ブンゼンとキルヒホフが1859年に発明した分光分析法は、可視、紫外、赤外から核磁気、電子スピンなどあらゆる電磁波に応用され、化学だけでなく、宇宙物理学、素粒子物理学、生物学、地質学など自然科学全般の発展に大きく寄与した。
ハイゼンベルグは、こうした技術と科学の相互関係について次のように記している。「技術は自然科学の前提であり成果である。まず技術は前提である。なぜなら、自然科学の拡大と深化はしばしば観測手段の精密化によってのみ実現できるから。望遠鏡および顕微鏡の発明、あるいはレントゲン線の発見を思い起こしてみるがよい。一方で技術は自然科学の成果である。なぜなら、自然力の技術的利用は、経験領域の十分な知識をもとにして初めて可能になるからである。」
○ヨーロッパ政治の夢と科学者共同体の夢
20世紀の物理学を飛躍させた技術は粒子加速器である。1930年にアメリカのローレンスが発明して以来さまざまな加速器が発明され、これを利用して素粒子の構造から宇宙の起源にいたる現代物理学の最前線が切り拓かれた。スイス・ジュネーブの郊外、フランスとの国境にまたがって深さ百数十メートルの地中に長いトンネルが掘られている。ここは電子機器と磁石、コンピュータの塊である。JR山手線と同じくらいの一周27キロメートルの円形の細いチューブの中を、電子と陽子が高速で飛びかい、ぶつかり合って究極の素粒子いわゆるクォークが発生している。ここはヨーロッパ素粒子物理学研究所(CERN)。
CERNは、1954年に設立された。現在は、ヨーロッパの加盟19ヵ国のほかにアメリカ、ロシア、ポーランド、日本などの科学者や技術者も集まり合計8,000人の科学者の共同体である。設立の当初は、スイス側の地下にあったトンネルは、より高いエネルギーを求めて延長され、65年には国境を越えてフランス領に広がった。現在ではスイスから通勤する人とフランスに家がある人が半々だ。CERNは、最新の物理学の実験の場であると同時に、今後の人類のあり方の実験場でもある。ここの研究者は、国籍よりも、どの研究グループに属しているか、どういう学問領域に関心をもっているか、といった意識の方が強いという。
さて、世界史をひもとくと、ヨーロッパ統合の夢は、ローマ帝国以来繰り返し試みられてきた。現在進められているヨーロッパ共同体(EU)の通貨統合と政治統合はこうした長い努力の一つの頂点であろう。ヨーロッパを分断した第2次世界大戦が終了すると、まず経済活動で統合を実現しようという運動が本格化した。科学の分野は、「科学に国境なし」として国民国家の間で協力がしやすい分野であり、共同事業の具体化が始まった。
第二次大戦でヨーロッパは科学のインフラが徹底的に破壊された。戦後、原子物理学を中心に科学活動が急速に巨大化していく中で、ヨーロッパの国々はアメリカとの競争についていかれず、ギャップがひろがった。これを打開するためにヨーロッパの各国が共同で当たるしかないという認識が広がった。宇宙線の研究がモデルとなった。これは、戦後直ぐヨーロッパの若い研究者が集まって、スイス、フランス、イタリー、ベルギーなどの山々の観測所で協同して宇宙線を観測し、40年代の後半にメゾン、ミューオンなどの素粒子を次々に発見した。この経験は大きな自信となった。ヨーロッパの科学界はより大きな共同事業に挑戦する熱意を高めた。
DELPHIとよばれる素粒子検出器(CERN提供)
○夢の実現へーCERNの誕生と建設を担った技術者たちー
1949年12月、スイスのローザンヌでヨーロッパの文化に関する会議が開かれた。フランスの波動力学の貴公子ド・ブロイは、ここでヨーロッパに国際研究所を作るよう提案した。この時はアイデアだけであったが、翌年フィレンツェで開かれたユネスコの会議は、欧州共同の研究所のスタートとして画期となった。この会議で、核磁気共鳴の研究でノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者でハンガリー出身のラビは、「一国ではできない分野で科学者が国際的に協同してより大きな成果を挙げるため、地域共同の研究センターの設立が緊急だ」と演説した。会議は全会一致でラビの提案を支持した。ユネスコの自然科学部長ピエール・オージェも重要な役割を果たした。ちなみに、アメリカはこのころ既に、ブルックヘブンやアルゴンヌなどの大規模な研究所を建設し、大学や海外の協力の下に運営し研究する経験を積み重ねていた。
1950年の夏から冬にかけて、活動を再開した国際学術連合会議(ICSU)傘下の国際純正応用物理学連合を舞台に、ラビの構想がヨーロッパとアメリカで議論され具体化が始まった。高エネルギー物理学でヨーロッパに巨大な加速器を建設するというコンセプトが煮詰まっていった。年末には、検討の費用として、イタリーを先頭にフランス、ベルギー合わせて1万ドルが集まった。翌年ユネスコに検討チームが発足し、コペンハーゲンでの国際会議、ブルックヘブンへの訪問などを通じて、どのようなタイプの加速器を建設するか、設置場所をどこにするか検討が深まった。52年末までに、コペンハーゲン、パリ、オランダのアーヘム、ジュネーブの候補地の中から、最終的にジュネーブが選ばれた。
1953年7月1日、恒久的な機関を設立する憲章に、オーストリア、ベルギー、デンマーク、フランス、ギリシャ、ノルウェー、スウェーデン、イギリスなど12ヵ国がサインした。イギリスは当初オブザーバーだった。参加国の資金的な寄与はGNPに比例し、25パーセントは越えないことになった。土地はスイス政府から寄付された。初代の所長にはノーベル賞物理学者ブロッホが選ばれた。彼はスイス生まれでアメリカ市民、当時スタンフォード大学教授であった。早速その年の10月に設計と建設のグループがジュネーブに集まった。この時期、今までは来るべき研究所のミッションの議論が中心であったが、加速器のハードの設計、建設の段階に移った。理論屋のブロッホは、巨大加速器の建設には関心が薄く所長の座を1年で去り、オランダの物理学者バッカーが2代目所長として第1加速器の建設を進めた。加速器の設計や建設に経験のある、イギリスのジョン・アダムスやブルックヘブンのブレウェットなどの技術者が各国からジュネーブに集まった。こののちアダムスは30年にわたってCERNの歴代の加速器の建設に携わり、技術の大黒柱となった。
○“建設”から“科学”へーワイスコフの登場ー
1958年にCERNで最初の加速器が完成し、いよいよ実験が始まろうとしていた。そのやさきバッカー所長が飛行機事故で亡くなった。後任に選ばれたのがCERN中興の祖ワイスコフである。
ビクター・ワイスコフ(1908年〜)。オーストリア生まれ。ゲッチンゲン、コペンハーゲン、チューリッヒで量子力学創生期の巨人物理学者たちに学び、とくにパウリの弟子。1937年からアメリカに移住し、ロチェスター大学教授。マンハッタン計画に参加した後、1946年からMIT教授。量子電磁気学、原子核反応の統計理論などで多くの業績がある。彼は回顧の中で、「パウリが私にのべた注意を思い出す。○○専門家にならないように。それには2つの理由がある。第一に、もしあなたが専門家になると、形式主義の大家になって本当の自然を忘れてしまう。第二に、あなたは本当に興味あることについて仕事をしようとしなくなる恐れがある。…それゆえ私は、興味を高エネルギー物理学と、科学の国際政治へと移し、ついにCERNに赴くことになった。」とのべている。
彼は、CERNの所長を1960年から65年末まで勤めたが、所長に選ばれた理由をこう述べている。自分はアメリカ籍をとりMITに在籍していたが、ヨーロッパ生まれでアメリカとヨーロッパに多くの知人がおり、またCERNの構想に最初から参加してきたと。この時期は、建設された加速器を利用した“物理”がまさに始まろうとしていた。大規模な設備を適切に動かしどういう研究をどうやって進めていくのか“科学”への準備が全く不足した移行期であった。ワイスコフは、異なった国家、それぞれが自己の論理をもち視点を異にする物理学者、さらに、技術者、建築士、機械工、労働者、政治家それぞれの間で提起された問題を解決し、実験、研究、運営を成功させるという困難な仕事に立ち向かった。研究資金の確保、多くの国からの研究者の公平な採用、各国や各研究者グループが要求する実験計画の調整、大学など外部機関の積極的な参加をうながす仕組み、職員の処遇など。一方では、研究所の活力を維持するため次の世代の加速器の構想を固めなければならなかった。
課題の一つ一つを走りながら解決する困難な状況ではあったが、ヨーロッパの科学者だけでなく政治家までが、CERNがヨーロッパ統合の象徴であること、復興しつつあるヨーロッパ科学の頂点にあるとの理解と熱意を示した。これが成功の最大のテコになったとワイスコフは証言している。彼はまた、個人的に、私の人生のこの5年間に対して興奮した思い出や大きな仕事の完成を助けたという自負の感情をもち続けていると記している。彼が1965年に所長を辞任してMITに帰る時CERNの関係者が編んだ記念誌に、つぎのような巻頭言がある。「ワイスコフは、彼が若い時代に熱中した理想主義と熱意を、CERNにおける組織化した研究と大規模な実験の世界に持ち込んで大きくユニークな成功を導いた。彼がCERNで果たした仕事とその成熟した人格を通じて、ワイスコフはヨーロッパの現代物理学に深い影響を与えた」と。
“目利き”としてのワイスコフの逸話を一つのべておく。企業家なみの行動力でアメリカに一泡も二泡もふかせたイタリアの物理学者でCERNの所長にもなったカルロ・ルビアである。彼はコロンビア大学の留学が終わると、20代で大学教授と同等とみなされるCERNのグループリーダーに抜擢された。これは、ヨーロッパの物理学者仲間では前代未聞だったが、当時所長だったワイスコフは、ルビア登用を押し切ったのであった。
○CERNがアメリカを抜いた日
70年代に入ると、ワイスコフの時代に構想された加速器ISR(71年)、SPS(75年)が次々に完成し、ヨーロッパは、巨大施設を運営しこれをつかって実験を行い成果を出すことに習熟し、アメリカにキャッチアップした。その象徴が1983年2月に発表されたルビアたちの成果であった。SPSをつかって素粒子の弱い相互作用をつかさどるWとZ粒子いわゆるウィークボゾンの発見である。この業績で、ルビアとバン・デル・メーアは1984年にCERNが待ち望んだノーベル賞に輝いた。CERNは、戦前はヨーロッパのものであった物理学の栄光を回復するため、アメリカの巨大な研究所に対抗するために設立された。ヨーロッパ科学の誇りを取りもどし、ヨーロッパの統合をめざした素晴らしいアイデアであった。しかし設立から20年間はなおアメリカの後塵を拝してきた。ルビアのノーベル賞は、ワイスコフやラビあるいは大型加速器の技術を教えてくれたアメリカに対するヨーロッパの恩返しでもあった。一方で現実は厳しく、アメリカのブルックヘブンに建設中であったSPSと同じタイプの加速器「イザベル」は建設中止に追い込まれた。
ビッグサイエンスは現在世界中の研究者を巻き込んでいる。ルビアのノーベル賞の論文は実に135人の共著であった。こうしたグローバルな研究体制を可能にしている技術はコンピュータとネットワークである。もともとこの分野は軍事を背景としてアメリカが圧倒的に強かった。しかし1990年、CERNのコンピュータ科学者バーナー・リーは、世界中に分散している協同研究者の間で瞬時に実験や解析データを共有できるソフトウェア(WWW:World Wide Web)を開発した。このシステムは、使い易く早くから公開されたため、研究用としてだけでなく、インターネットの普及とともに一般社会にも爆発的に利用されるようになり、今や企業活動から市民生活まで人類全体の活動を変えようとしている。デジタル革命の基盤技術をアメリカが独占する中で唯一の例外といえるものである。
Rudolf LEY, PS Division, CERN, 02.09.96(CERN提供)
○ビッグサイエンスの運命ーワイスコフの警鐘ー
CERNを育てたワイスコフは、ビッグサイエンスのあり方について次のように警告している。「科学の興味は何であるかを予知し長期のプログラムによって組織し、そこに物理学者たちが参加していくという時代になった現代の物理学は、私が第一歩を踏み出した頃とはまったく異なった仕事になった。科学はできるだけ速やかに新しい結果をつくりだすという使命をもった企業になった。超専門化というのが当たり前になった。これは非常に危険である。この超専門化によって研究が加速される。研究者はますますはげしくなる競争に追いかけられて、自分自身の領域に興味をもつ時間しかもちえなくなった。…物理学者は、物理学のあらゆる面に興味をもち、興味の中心を時には変える楽しみをもつべきであろう。なぜならば、それによって、新しく実り多い発想が生まれてくる。科学の最先端の大部分は、非常に広い視野から生まれてきたのである。」
○モデルとしてのCERN
世界屈指の大型施設を建設し、安全に運転し改良を図りながら、そのプラットフォームの上で多くのトップレベルのサイエンスの業績をあげてきたCERN。その歴史は、SPring-8をはじめわが国の今後のビッグサイエンスにとって貴重な道標となろう。
ヨーロッパの英知は、学問の上でも政治的にも多くの成果と経験を積んだCERNをモデルとして、共同の研究所を次々に設立していった。ヨーロッパ宇宙機関(ESA、1975年)、ヨーロッパ分子生物学研究所(EMBL、1974年)、ヨーロッパ放射光施設(ESRF、1988年)など。ちなみに、高エネルギー物理学や宇宙開発と異なり、スモールサイエンスを束ねたような分子生物学の分野で、ヨーロッパ共同の研究所を設立することに対しては多くの議論があった。こうした議論の末にEMBLが設立される決め手となったのは、ハンブルグの放射光施設とグルノーブルの中性子ビーム施設の共同利用であった。
有本 建男 ARIMOTO Tateo
日本原子力研究所 広報部長
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