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Volume 02, No.2 Pages 37 - 39

6. 談話室/OPEN HOUSE

モーツアルトとX線
X-ray Amadeus Mozart

北村 英男 KITAMURA Hideo

日本原子力研究所・理化学研究所 大型放射光施設計画推進共同チーム 利用系グループ JAERI-RIKEN SPring-8 Project Team Experimental Group

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 昨年のSPring-8一般公開では弦楽四重奏とピアノ独奏という粋な企画を楽しませてもらった。四重奏団は若手らしい溌剌さでモーツアルトのアイネクライネナハトムジーク(K525)とディヴェルティメント(たぶんK136)を演奏した。アイネクライネナハトムジークはトルコ行進曲付きピアノソナタ(K331)とともにモーツアルトの最もポピュラーな作品として親しまれているものである。しかし、この余りにも有名な作品(オリジナルはコントラバスを加えた弦楽五重奏、しかも5楽章構成であった。現在伝えられているものは二つあるメヌエット楽章のうちひとつが欠落した4楽章構成)はモーツアルトの死後およそ100年間世に出ることがなかったそうで、ミロス・フォアマン監督による映画「アマデウス」の冒頭の場面「モーツアルトの宿敵サリエリがこの曲を弾いてやると神父がこれを口ずさむ」は明らかにフィクションである。1984年のこの映画はそれまでのモーツアルト観を覆すことになった。神秘のベールに包まれていたミューズの子神童モーツアルトがあれほどまでに軽薄、かつ生活破綻者であったとは誰も信じられなかったであろう。こういう証言が残っている。モーツアルトの女弟子のひとりがピアノを弾いているとモーツアルトがかわりに続きを弾き始めた。しかし、いきなりそれを止めると宙がえりをしたり机の上に飛び移りながらニャーニャーと猫の鳴き声を真似た。また次の身内(モーツアルト夫人コンスタンツェの姉アローイジアの夫)の証言は核心をついたものとして有名である。「その会話や行動においてモーツアルトを偉大な人間と認めることが最も不可能だったのは、まさにかれが重要な仕事に取り掛かっているときであった。(中略)このように崇高な芸術家は、芸術に対する深い尊敬の念から、自らの個性をおとしめてあざけり、またこれにかまわずほうっておくことができるのだ」。


 天は資質を与えることがあっても天才を決して造らない。天才とは集中力の継続のなかでインスピレーションを得ていく人のことを言う。しかし、集中度が高ければ高いほど隙ができる。ウイーンの宮廷楽長サリエリはそこにつけ込んだのである。昨年亡くなられた司馬遼太郎氏の言葉にこういうのがある。「人間にはチャイルドな部分とアダルトな部分がある。チャイルドな部分は芸術、学問の発展の基となる。一方、アダルトな部分は人間関係を調整するために必要である。チャイルド部分が少ない人は最もつまらない人間である。もちろん、アダルト部分が全くないのは問題だが」。サリエリは当時のウイーン音楽界を牛耳っていたイタリア音楽家派閥のリーダーであった。人間関係に関わる調整技術を駆使すればチャイルド的人間の典型モーツアルトを陥れることはいとも簡単であったであろう。しかし、サリエリの作った音楽は彼の存命中ですら忘れ去られ現在ではモーツアルトと対比する目的以外には演奏されることがない。もしかれが陰謀に費やす時間を研鑽と創作に振り向けておれば不朽の名作の一つや二つを残したかもしれない。

 モーツアルトは約800曲の作品を残して1791年12月5日に死んだ。35歳の若さであった。これらの作品のうち正確な完成日が判明しているのは 足らずである。これは1784年2月から始めた自作品目録に記録されている分(完成作品のみ)である。未完のものを含む残りの作品は父親の記録やモーツアルトの書簡から推定せざるを得ない。彼の天才的作品が神の声をそのまま楽譜にしたためたものではなく努力する人間の集中力の継続の結果であるとするならばその作品群を作曲順に整理することは成熟していく天才の足跡をたどるための重要な手掛かりとなる。この困難な仕事を最初に試みた人物はウイーンの植物学者ケッヘル(1800-1877)であった。得意の分類学の手法を駆使してモーツアルトが6歳の時に作曲したクラヴィーア曲(K1)から絶筆となったレクイエム(K626)にいたるまで作品番号を与えたのである。その業績を讃える意味でモーツアルトの作品番号の頭には必ずケッヘルの頭文字Kが付けられている。しかし、綿密な作業にも関わらず少なからぬ間違いも指摘されていて、音楽学者アインシュタイン(物理学者アインシュタインの従兄弟)によって徹底的に並べ替えられている。また、モーツアルトの遺品のなかに他人の曲も混じっていたらしく、例えば有名なモーツアルトの子守歌(K350)はフリースという人物が作曲したものであると断定されている。しかし、ベテランのアインシュタインでさえも見逃した作品も存在する。その一つはミサ曲の一部であるキリエ(ニ短調K341)である。永い間ミュンヘンで作曲されたとみなされていたのでミュンヘンのキリエとも呼ばれている。

 モーツアルトは1756年1月27日にザルツブルグで生まれた。この町はローマ教会領であったから代官の実務をつかさどる大司教によって支配されていた。大司教といってもヴァチカンから坊主が派遣されてくるのではなく家督を継げなかった貴族の次男坊あるいは三男坊がこの職に就いていた。幼き時より神童の誉れ高かったモーツアルトは大司教のお抱え楽士として雇われていたが、1781年(25歳)待遇上の問題で大司教コロレドと対立し、これ以来、フリーの音楽家としてウイーンで活躍することになる。コロレドは当時の啓蒙思想(ヴォルテール)にかぶれた人物であったが内実は貴族主義の権化であった。モーツアルトを類い希なる天才としてではなく一介の使用人として事務的に扱ったのである。また旅行にきびしい制限を加えたことがモーツアルトにとって我慢のならないことであったらしい。一方、ウイーンにおいてかれの最大の庇護者になった神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルグ家のヨーゼフ2世は正真正銘の啓蒙君主であったらしい。もちろんノー天気で有名な人物であったのでしばしば臣下の者たちを困らせた。芸術や学問というのはこのような人物を必要とするらしい。


 ザルツブルグでは職務上多数の教会音楽を作ったが、ウイーンにおいては個人的な特殊事情でつくった傑作、ハ短調ミサ曲(妻コンスタンツェとの結婚請願)、アヴェヴェルムコルプス(友人への返礼)、レクイエム(借金地獄ゆえお金に目が眩んで)以外の教会音楽は作っていないとされてきた。教会と職務的には縁がなかったからである。したがって、前述のニ短調キリエはウイーン以前の作品であるとされたのである。また、管弦楽が大規模であるとともに当時新興楽器であったクラリネットが使用されているのでザルツブルグ(ここの楽団にはクラリネットがなかった)ではなく、モーツアルトが自作の歌劇イドメネオの指揮のためミュンヘン滞在中(1781年)に作曲したものであるとされてきたのである(当時ミュンヘンには世界有数の管弦楽団があった)。演奏時間が7分程度のこのキリエは録音されたものが少ないため入手は困難であるが、最近輸入盤を購入する機会にめぐまれた(つくばの石丸電気)。聴いてみるとたいへんな傑作である。フランスのある詩人がいうようにこの作品の前ではひざまづきたくなる。とても若きモーツアルトが作曲したものとは思えない。限りなくレクイエムに近い音楽である。

 モーツアルト作品を年代順配列するための伝統的手法は残された書簡集を基に経験と勘だけに頼るものであったが、最近になって科学的手法を試みる音楽学者があらわれた。アラン・タイソンという人物である。かれの使った道具はなんとX線である。モーツアルトの自筆譜の透過写真を片っ端から撮ったのである(1980年代)。当時の製紙は手漉きであった。各メーカーはトレードマークを透かしにするために繊維受けの金網に仕掛を作っていたのである。X線撮影ではインクは写らずこの透かしだけが浮かび上がる。製造時期によってその透かしは微妙に変形している。作曲日不明の自筆譜用紙の透かし模様が、作曲日が判明している用紙の透かし模様と一致すればその作品のおよその作曲日が判明するわけである。この画期的な方法は従来のモーツアルト研究の常識を覆すこととなった。たとえば、従来までザルツブルグで作曲されたと思われていた教会音楽の断片(習作)の多くが晩年(ウイーン後期)の作品であることが明らかになったのである。したがってウイーンでは教会音楽を作曲する意志が全くなかったという定説が覆されてしまったのである。これを支持する別な証拠がある。ウイーンには高い尖塔をもつ有名な聖シュテファン教会がある。当時この教会の楽長はホフマンという人物で重い病気に罹っていていつ死んでも不思議ではない状態であった。モーツアルトはその後釜に座るつもりで無給ではあるが副楽長の地位を得た(1791年5月)。ホフマンが死ねば有給の楽長職が手に入るわけである。宮廷はサリエリ派閥が牛耳っておりモーツアルトがくい込める可能性はゼロに近かった。宮廷の管轄ではなくウイーン市の管轄であった聖シュテファン教会に活路を開くつもりであったに違いない。しかし、皮肉なことに死にそうなホフマンはモーツアルトが死んでから2年も生きながらえている。残念ながらあのニ短調キリエの自筆譜は失われているのでX線による判定はできないが、この作品は聖シュテファン教会副楽長としての研鑽の結果ウイーンにおいて、しかもレクイエムの直前に生まれたものに相違ないし、レクイエムが類い希なる名曲である理由もよくわかるのである。

 モーツアルトの譜面台には常に偉大な音楽家達(ハイドン、大バッハ、ヘンデル)の楽譜が置かれていたと伝えられている。かれの天才性は集中力の継続と絶えざる研鑽の賜物である。学問の分野でも全く同じことがいえる。放射光科学においてもそうである。放射光は加速器やビームラインを構成する種々の装置を基本とする科学分野である。装置を仕上げないとお話にならないし業績として決して評価されない。仕上げるにあたっては幾多の困難に遭遇する。それを克服するのは担当する人たちの知恵である。しかし、手をこまねいていては霊感は湧いてこない。(集中力の)継続は力なりという言葉が装置科学の分野ほど重要な意味を持つものはない。



参考文献:

モーツアルト事典(海老沢敏・吉田泰輔)、モーツアルト(Fritz Hennenberg/茂木一衛訳)、モーツアルトの宗教音楽(Carl de Nys/相良憲昭訳)、新モーツアルト考(海老沢敏)、比類無きモーツアルト(Jean-Victor Hocquard/武藤剛史訳)、モーツアルト( Karl Barth/小塩節訳)、モーツアルトの世界(Stanley Sadie/小林利之訳)、モーツアルト・ベスト101(石井宏編)、司馬遼太郎が語る日本(週刊朝日1月17日号)



北村 英男 KITAMURA Hideo

昭和22年6月23日生

日本原子力研究所・理化学研究所大型放射光施設計画推進共同チーム

〒678-12 兵庫県赤穂郡上郡町

TEL:07915-8-0832

FAX:07915-8-0830

略歴:昭和45年京都大学理学部卒業、昭和51年8月同大学院修了、同年9月東大物性研助手、昭和55年5月高エネルギー物理学研究所放射光施設助手、平成2年4月教授。平成5年理化学研究所主任研究員(兼務)。理学博士、日本物理学会、日本放射光学会会員。最近の研究:挿入光源、自由電子レーザー。今後の抱負:第4世代放射光源の開拓。ピアノ音楽鑑賞、スパイもの、法廷ものビデオ鑑賞が趣味。



Print ISSN 1341-9668
[ - Vol.15 No.4(2010)]
Online ISSN 2187-4794