Volume 27, No.1 Page 1
理事長室から 一隅を照らす -高輝度光源と照らし合わせて-
Message from President Life to Illuminate a Corner – in Reference to Low-Emittance Light Sources –
標題の言葉は、比叡山延暦寺(天台宗)の開祖・最澄の言葉で、人材教育の重要性を説いた一説とされています。昨年末に、書写山にロープウェイで登り、歩き始めると直ぐ目の前に現れた石碑にこの言葉が記されていました。以前にも何度か目にした言葉ですが、何か心に響き、共鳴するものがありました。「放射光は高輝度だから全体を照らす光ではなく、一隅を照らす光。だからこそ、測定対象である物質の本質を捉えることができる」という思いが共鳴したのだと思います。その後、圓教寺を参拝し食堂(じきどう)で書写して下山しました。その時に標題の言葉を心の中で反復しながら感じたことを皆さんと共有したいと思います。
先ずは、「照らす生き方」または「照らされる生き方」の選択に関してです。どちらが幸福な生き方なのかという問題です。自分が他者から認められ注目される生き方=他者から照らされる生き方、を願っているのではないかという自問です。この生き方は、よく考えてみると、受動的・他者依存的な生き方で、自分の努力では如何ともし難いままならない生き方なのでは?と考えさせられます。結局は、「照らす生き方」の方が幸福な生き方ではないかということです。とはいうものの、「照らす生き方」をしても、照らされることが無ければ持続しないというのも事実です。しかし、他者が光を完全に吸い取ってしまうブラックホールでない限り、必ず何らかの反射光が帰ってくるので、「照らす生き方」は「照らされる生き方」に通じるというのが宇宙の法則、というのが結論でした。
次に、「一隅を照らす」または「全体を照らす」の選択に関してです。放射光やレーザーは、ビーム発散が小さい「一隅を照らす」光源なので、科学技術や工学には適しています。しかし、新聞を読むには太陽や電球のようなビーム発散が大きい「全体を照らす」光源の方が適しています。では、人の生き方としてはどちらなのかという問題です。ニーチェは、太陽的な神々に心引かれ太陽的な生き方をする「超人」に憧れました。彼は「キリスト教の神を殺したい」と考え、それに替わって「人類を支配するような存在」としての「超人」に憧れたようです。ニーチェの考え方には逞しさを感じるものの、独善的な傾向が強いという印象を免れ得ません。人の生き方としては、「一隅を照らす」生き方のほうが、健全であり真摯で謙虚なプロフェッショナルな善き生き方である、が結論でした。
最後に、「一隅を照らす」生き方は、光の当たらない他の場所をなおざりにすることにはならないかという懸念が頭をよぎりました。人類にはお互いに協力し合える高次な能力が与えられているので、お互いが相補的に能力を発揮して協力し合えば、「全体を照らす」ことができるようになる、と考え納得しました。そのためには、お互いの違いを認め合う「多様性」が尊重されるべきだと思います。
「一隅を照らす」という言葉を日常生活で応用する場合は、「〇〇の一隅を照らす」というように、〇〇に入る文言を考えることが必要だと感じます。例えば、職場、家庭、研究分野、コミュニティー、地域、等々。
標題の言葉は、人材教育の重要性を説いた一説とのことですが、私自身の自己研鑽に役立つ言葉であると痛感しています。