Volume 24, No.1 Page 1
理事長室から -正倉院宝物の染織品と万葉歌にみる植物染色法-
Message from President – The Shosoin Textiles Dyed with Various Plants and Related Poets in the Manyoshu on the Eighth Century –
第69回正倉院展が昨秋に奈良国立博物館で開催された。毎回数十点の宝物が出展され、8世紀天平期の美術工芸品や書巻文書を鑑賞することができ、訪れた方も多いと思う。正倉院の収蔵品は整理済みのものだけでも9,000点に達し、それらの詳細を正倉院HPや正倉院紀要にて確認できる。1,200年以上も、多くの収蔵品が良好な状態で残されたことは、歴史の奇跡と言えよう。正倉院を訪れて、「天平の遺品の残る地に立ちて正倉院の僥倖思ふ」と歌を詠んだ。
今回は、正倉院宝物の染織品と植物染色法について述べたい。2015年度から4年間にわたり、SPring-8共用ビームライン重点研究課題として、社会・文化のための利用領域を設定し、文化財科学、環境科学、古生物学などの研究者らによるSPring-8利用の促進を図った。学術利用、産業利用に続く、第3の柱として社会・文化利用が進展することを期待している。文化財科学の研究対象として天平期の染織品を挙げたい。その理由は、第一に織物、染色、文様の各技術が天平期に完成の最高域に達していたこと、第二に植物染料による染色技術の再興が望まれていること、第三に正倉院古裂の整理が進み多種多様な染織品が存在することである。
正倉院染織品は、服飾、衣服、幡、敷物、袋、組紐など多様であり、そして多彩であり、今日においても鮮やかな色彩を放っている。古代の代表的な植物染料として、赤色の茜、紅花、黄色の黄檗、刈安、紫色の紫根、青色の藍、茶色の橡、柿などがある。茜からブルプリン、黄檗からベルゾリン、刈安からルテオリン、紫根からシコニン、藍からインジゴ、橡や柿からタンニン酸が色素として抽出される。茜、刈安、紫根、橡、柿を用いる染色において、金属イオンが色素分子と錯体を形成する媒染作用のために、金属イオンを介して繊維と色素が強く結合する。一方、紅花から抽出される紅色素カルタミンは、金属イオンと錯体を形成しない単色性染料であるために、染織品が退色すると考えられてきた。しかしながら、紅花染めの正倉院染織品の一部は、今も鮮やかな赤色を保持しており、その理由を知りたいものである。
古代において、染師たちは植物から抽出される色素の分子構造を知ることもなく、長年の試行錯誤の作業を経て、8世紀には植物色素の抽出法や媒染剤の使用法などの高度な染色技術を完成させたことは驚異的である。30種類以上の染色材料が、養老律令の施行細則を集大成した延喜式の第14巻縫殿寮の雑染用度の条に記載されている。また、8世紀後半に編集された万葉集には、染色に関する多くの歌が収録されている。それらから民謡と大伴家持の短歌二首を紹介して参考に供したい。これらの歌は、天平期において貴族のみならず庶民も植物染色の手法と特徴を広く理解していたことを示している。
紫は灰さすものそ海石榴市の八十のちまたに逢へる児や誰
(紫の染色には灰を入れるものよ。灰にする椿の名を持つ市の辻で逢ったあなたは何という名か)
紅は移ろふものそ橡の馴れにし衣になほしかめやも
(紅色は華やかだが色が直ぐにあせるよ。地味だが堅固なつるばみ色に染めた衣にどうして及ぶことがあろう)