Volume 22, No.3 Page 226
理事長室から -理化学研究所の創立百周年にあたり-
Message from President – Celebrating RIKEN’s Hundredth Birthday and its History –
財団法人理化学研究所は、渋沢栄一が総代となり総額2百万円を越す寄付を集めて1917年3月20日に設立された。総裁には伏見宮貞愛親王、副総裁に渋沢栄一、初代所長に菊池大麓、副所長に桜井錠二、物理学部長に長岡半太郎、化学部長に池田菊苗が就任した。4月26日には皇室より毎年十万円ずつ、計百万円が理研に下賜されることが伝達され、研究所は東京・駒込に設置されることになった。天皇皇后両陛下の臨席の下、本年4月26日に理研創立百周年記念式典が挙行された。理研は、この百年間に財団法人、株式会社、特殊法人、独立行政法人、国立研究開発法人と姿を変えつつも、研究思想として「理研精神」を掲げて自然科学の総合研究所としてわが国を代表する研究機関であり続けた。
ここで、理研精神を大学で実践した喜多源逸と真島利行の業績を紹介したい。駒込に建物が完成すると物理学部と化学部との争いが激しくなり、理研は危機に陥った。危機にあたり、1921年に大河内正敏が所長に就任し、部制を廃止して主任研究員の名を冠した研究室制に改め、1922年に14研究室が発足した。長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利行、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高峰俊夫、飯盛里安、西川正治が主任研究員に就任して研究室運営を始めた。
喜多源逸は1946年までの25年間理研研究室を京都帝大工学部に置き、工業化学における京都学派と呼ばれる学風を築いた。喜多門下から、工業化学の小田良平、宍戸圭一、古川淳二、野崎一、鶴田禎二、繊維化学の桜田一郎、堀尾正雄、岡村誠三、燃料化学の児玉信次郎、福井謙一、新宮春男など錚々たる逸材が育った。喜多は優秀な人材を理研資金で研究生や嘱託として雇用するとともに、理研在外研究員として海外に留学させた。喜多の研究室運営は、基礎科学を重視するとともに、その成果を産業化につなげるという大河内の理研精神を反映したものであった。喜多は工業化学科の学生に理学部の化学、物理、数学を受講するよう勧めた。このような基礎科学を重視する研究環境のもとで、福井謙一は1981年のノーベル化学賞受賞につながるフロンティア軌道理論を創出した。また、喜多は1930年から京大化学研究所の所長を12年間務めて、フィッシャー・トロプシュ法による人造石油の工業化、合成繊維や合成ゴムの工業化などを主導した。喜多が築いた学風は戦後も継承され、京大工学部の化学系教室は多くの逸材を輩出している。
つぎに、ウルシやトリカブトなど天然物に含まれる色素、毒素、薬効成分の構造研究で著名な有機化学者の真島利行の偉業を述べたい。真島は、1911年に東北帝大教授に就任してウルシオール研究を進め、1922年に理研内に真島研究室を開設した。仙台では本多光太郎とともに元旦も大学に出勤する研究の鬼であり、毎月上京しては理研に泊り研究室員を指導していたという。その後、1929年から東工大教授、1930年から北海道帝大教授、1932年から大阪帝大教授を兼務して、有機化学分野で多くの人材を育成した。東北大研究室から野副鉄男、赤堀四郎、藤瀬新一郎、理研研究室から小竹無二雄、黒田チカ、東工大研究室から星野敏雄、北大研究室から杉野目晴貞、阪大研究室から村上益雄、村橋俊介、金子武夫などの逸材が育った。のちに赤堀四郎と星野敏雄は理研の理事長に就任している。真島は、1939年に阪大産業科学研究所の初代所長になり基礎科学の成果を産業化する理研精神を実践し、1943年に大阪帝大の総長に就任した。
このように、理研の主任研究員は、それぞれの研究分野において大学と強い連携を保ち、数多くの人材を育成するとともに、理研精神を実践して科学の進歩と産業の発展に貢献してきた。これからの百年においても理研のさらなる進化を期待したい。