Volume 18, No.2 Page 64
理事長室から −私の応援人生−
Message from President - Supporting Scientists and Engineers –
今回は全くの私事に亘ることをお許しください。
子供のころ、私は大の科学少年でした。小学校高学年から中学生の頃の愛読雑誌は「子供の科学」や「初歩のラジオ」で、町のジャンク屋に出かけては小遣いをはたいて真空管などを漁り、「並三」だの「六球スーパー」などを作って悦に入っていました。
高校生になってもごく自然に理科系コースを選び、大学も理科系に進学しました。大学ではもう一つ、楽器(管楽器)を吹きたいと思い、吹奏楽団を探しましたが、唯一のブラスバンドは応援部の吹奏楽団でしたので、そこに席をおきました。吹奏楽団としての目標は年に一度の定期演奏会の開催ですが、応援部に所属していますので、各種行事の応援活動、特に春秋のシーズンは野球の応援に明け暮れることになります。ところが、応援対象の野球部は名だたる弱小球団で、ひどい時には春秋のシーズンは全敗、しかもそれが何年も続き何十連敗という不名誉な記録を作ることもあります。さらに悪いことには大学紛争の煽りで入試が中止になり、一学年分野球部も応援部も新入部員ゼロでますます弱体化するという辛酸も舐めました。それでもくじけることなく応援を続けていると、たまにではありますが勝つこともあります。そして、その時のうれしさと言ったらなくて、まるで優勝したかのような大騒ぎになったものです。とにかく、応援部時代には主役(=野球部)を立てて自らは脇役に徹し、主役と苦楽を共にするという利他の応援精神を、身を以て学んだのでした。
さて、大学卒業後の進路を決める段になって、自分はどうも理科系の研究者には向いていないのではないか?と考えるようになり、まず大学に残る途は選択肢から外しました。しかし、自然科学にはずっと興味を持っていましたので、企業に入ってエンジニアの途を選ぶか、あるいは自然科学に携わることのできる行政の分野へ進むか、を選択肢として考え、思案の挙句後者を選んで(旧)科学技術庁へ奉職することにしました。
これは、よい選択でした。科学技術庁では広い意味での科学技術振興行政に従事したわけですが、その本質は自然科学に携わる研究者・技術者の方々の活動を“応援”することに他なりません。自らは理科系の現場からは離れてしまいますが、自然科学を志す研究者・技術者の方々が立派な成果を挙げていただけるようにお手伝いすることは、大学時代の応援部で培った利他の応援精神を活かすにはもってこいの仕事だったわけです(時には、いくら応援しても成果に結びつかない苛立ちを感じるところも、大学野球の応援とどこか似ていますが・・)。
そして、二度にわたるJASRIでの仕事も、まさにSPring-8の利用研究者の方々を直接応援することでした。SPring-8の利用研究は、殆ど全ての自然科学の分野に及びますから、JASRIで仕事をしていると最新の自然科学のダイナミックな動きに日々接することが出来ますし、それにチャレンジする我が国の研究者が少しでも優れた成果を挙げられるように支援することは、本当にやりがいのある仕事でした。
最後に、私は間もなく理事長の任期を終えることになりますが、その後も外野の芝生席から、JASRIとSPring-8/SACLAに声援を送り続けることをお約束して、本「理事長室から」のコラムを閉じることにしたいと思います。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。