ページトップへ戻る

Volume 05, No.1 Pages 51 - 52

6. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTER FROM SPring-8 USERS


Rainbow

青木 正

日本原子力研究所 関西研究所

放射光利用研究部

pdfDownload PDF (494 KB)


 この地の気候をどう形容したらいいだろう。

 -瀬戸内海は雨が少なく温暖な気候です-

 小学校で教わったこれだけの知識を抱えて、われわれの多くは遠くから移って来た。

 だが暮らしてみると話は大分違う。夏は、少なくとも日中は、あの人工的な熱源が乱立する東京にもひけを取らないほど暑いこともある。冬はといえば、今シーズンも12月6日に初雪が降ったほどだ。とは言うものの、気候の厳しさのバロメータとなっている紅葉の鮮やかさはここにない。しけた線香花火のように、色がだらしなく変わり、そのまま干からびてしまう。

 そんなこの地の気候を一番特徴づけているもの、それは虹ではないだろうか。

 ここ中央管理棟から見る東の空に、虹は実によく現れる。

 -そりゃお前が仕事中に窓の外ばかり見ているからだろう-

 確かにそのとおりだ。だが、いつも気が散って周りをきょろきょろ見回しているこの私でさえ、他の土地を訪ねてみて、あるいは汽車やクルマで移動してみて、これほどまで虹が頻繁に見られる地を知らない。

 夏。ここの夕立は、山の雷そのものの貫祿だ。山が削られ建物や芝生や道路という薄っぺらいオブラートで包まれてしまった千ヘクタールという広大なこの地を、何のためらいもなく一気に洗い流す。

 冬。今度は雪となって、夕立はやはり訪れる。稲妻を伴いながらこの地をたたきつける雪は、夏以上の凶暴性を見せつける。

 そして夏も冬も夕立の後、決まって現れるのが虹だ。それまでの表情を一変させ、穏やかに輝く虹は、われわれに対し、別の方法で自然の力を誇示する。


 あの虹はどこからどこまで掛かっているだろう。あの真下まで行けば虹はどんなに明るく輝いているのだろう。

 だが虹を追えば、追うだけ後退する。虹には大きさも位置もない。あるのはわれわれ自身を中心とした仰角だけだ。中央管理棟の屋上にある双眼鏡で見る虹は虚しい。レンズに映った像は、一面に合成着色料を流したような安っぽい色に覆われているに過ぎない。そうこうしているうちに、虹は輝きを増すことなく消えてしまう。虹には実態がない。





 科学と技術は全然違うところから出発したという話がある。科学は暇を持て余していた王様がこの世の原理を知ろうとしたもの、技術は忙しい庶民が労働を効率化するために生まれたものというのだ。だが猫も杓子も科学を志し、科学もそれなりに進化し、競争も盛んになった現在、科学は技術におんぶにだっこしなければ身動きとれなくなっているのが現状である。

 科学という手が掛かる子供を育てるために、技術は主に手の延長の役割を果たしていた。つまり技術は自分が知りたい現象をより誇張して見るための手段だったのだ。 だが、われわれはその技術として目の延長として使った。大げさな現象を起こさなくても、モノをよく見ることで、モノの本質を確かめる道を選んだ。そのほうが誰もが喜ぶ結果が出るし、環境破壊が少なく経済的にも安いと思ったからだ。

 そのかわりわれわれは光にはうるさい。われわれはモノをより正確に見るために光を使うのだから、素性の知れた光が必要だ。大きさがはっきりした光、形がはっきりした光、どんな色がどのくらい入っているのかが分かる光、そして何よりも明るい光をわれわれは求め続けた。そんな光を作り出し、光を有効に使うことに、みんな翻弄されている訳だ。


 その最中、東の空に虹がまた現れる。

 ある者はカメラを掴んで屋上に駆け上がり、ある者は得意気に窓の外を指さし、ある者はパソコンのディスプレイからそっと目を離して虹を一瞥する。

 われわれが最も忌み嫌うはずの光の亡霊――虹。

 確かな光を追うべきわれわれが、なぜこんな光を気にするのだろう。こんな光を愛でる野蛮な血がわれわれのどこに潜んでいるのだろう。





Print ISSN 1341-9668
[ - Vol.15 No.4(2010)]
Online ISSN 2187-4794