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Volume 04, No.1 Pages 44 - 47

6. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTER FROM SPring-8 USERS

放射光と生物学の出会い −ヨーロッパ分子生物学研究所(EMBL)設立の決定打となった放射光−
Synchrotron Radiation Encounter with Biology – Momentum to Establish EMBL –

有本 建男 ARIMOTO Tateo

日本原子力研究所 広報部長 Dept. of Public Communications, JAERI

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 1960年代初め分子生物学は新しい学問として登場しつつあった。同じころ、ヨーロッパに生物学研究所を協力してつくるアイデアが持ち上がった。また、放射光が生物構造の解析に大変有効なことが明らかになった。こうした学問の発達、研究体制の整備、技術の革新の3つがダイナミックに相互作用する中で、ヨーロッパ分子生物学研究所は設立された。 
 
 
 
ヨーロッパ分子生物学研究所(EMBL提供)
 
○放射光とヨーロッパ分子生物学研究所
 放射光は今から50年前の1947年に、ニューヨーク郊外GE社の研究所で、世界で初めて小さなシンクロトロンを使用して観測された。それから半世紀、今や放射光は、生物や材料のミクロな構造や機能を探る有力な手段として確立している。初期のころ高エネルギー物理学者にとって厄介ものであった放射光は、1970年代に入って生物学に応用の範囲を広げ、発展途上にあった分子生物学をささえる技術として大きく貢献した。
 ドイツの古都ハイデルベルグ、ネッカー川を見下ろす丘の上の森に囲まれて近代的なビルが立っている。ヨーロッパ分子生物学研究所(European Molecular Biology Laboratory, EMBL)である。1974年に設立されヨーロッパの14ヶ国とイスラエルが加盟している。設立から4半世紀、今や世界で屈指の生物学研究所になったEMBLには長い前史がある。それは、物理学者と生物学者の出会いであり、分子生物学という学問が成立していく過程であり、また、放射光が生物学研究の重要な手段として認められていくプロセスでもあった。
 EMBLは現在、ハイデルベルグの本部のほかに、ドイツのハンブルグ、フランスのグルノーブル、イギリスのヒンクストンに研究所をもつ。ハンブルグの研究所は強力なX線解析のできる放射光施設である。この施設こそ以下にのべるように、EMBL設立の決定打となったのである。

○EMBLの起源ー2人の物理学者の邂逅ー
 EMBLのような革新的で壮大な生物学研究所のアイデアが発想された起源を探ってみよう。最初に思いついたのは亡命物理学者のシラードであった。彼は、第2次世界大戦中にヒットラー・ドイツに対抗するため、アインシュタインを説得して、ルーズベルト大統領あてに原爆製造を促す手紙を書かせた人物として有名である。彼は、フェルミとともに核分裂の研究を組織し、1942年にシカゴ大学で世界最初の原子炉を成功させた。マンハッタン計画に参加した後、シカゴ大学の生物物理学の教授となり、’62年に起こったキューバ・ミサイル危機を契機にスイスに移住した。ハンガリー生まれのシラードは、ここでかつてマンハッタン計画で同僚であったオーストリア生まれで今はMIT教授の物理学者ワイスコフに会う。ワイスコフはこの時、CERN(ヨーロッパ素粒子物理学研究所)の所長としてジュネーブに滞在中であった。 
 
 
 
シラード(EMBL提供) 
 
 シラードとワイスコフは、ヨーロッパ科学の衰退への対策と今後の学問の方向について議論した。このころ科学の中心はヨーロッパから離れてアメリカに移っていた。科学は大きな資金と装置を必要とするようになり、アメリカは戦争で疲弊したヨーロッパにますます差をつけた。ヨーロッパの多くの若い優秀な頭脳がアメリカへ移住した。アメリカはケネディ大統領の時代で科学の黄金時代を迎えていた。ヨーロッパで生まれ、第2次世界大戦でアメリカに亡命を余儀なくされた2人の物理学者にとって、ヨーロッパ科学の栄光をとりもどすことは大きな願いであった。
 彼ら2人は議論するだけの学者でなく行動家であった。シラードはアメリカが原爆を製造するきっかけをつくった世紀の仕掛け人。一方のワイスコフは、ロスアラモスで水爆の開発に反対し、’60年代末からは核兵器反対と環境保護の先頭に立ち、科学者の良心といわれて現在も尊敬をうける「憂慮する科学者同盟」をつくった人物である。さらにワイスコフは、ヨーロッパが共同でアメリカに対抗してつくった巨大な加速器をもつ素粒子研究所の構想段階から検討に参加し、今や所長になっている。
 二人の物理学者の結論は、ヨーロッパ科学の再生のため、そして誕生しつつある分子生物学の可能性を飛躍的に拡大するために、1954年に設立されたCERNのような国際的な研究組織をつくってはどうかというものであった。

○生物学者の結集と分子生物学への認識の広がり
 ワイスコフとシラードは、彼らのアイデアの具体化のため生物学者の結集を図った。まず、ノーベル賞を受賞したばかりの2人の生物学者をジュネーブに招いた。それも授賞式の帰途に。DNA 2重らせん構造の発見者ワトソンと蛋白質ミオグロビンの3次元構造をX線解析したケンドリューである。2人は、1962年12月、ストックフォルムでノーベル賞を受賞して帰国する途中、ジュネーブに立ち寄りシラードとワイスコフに会った。この時の物理学者と生物学者の議論から生まれた構想が、12年後にヨーロッパ分子生物学研究所として結実することになる。
 翌年8月イタリアで、シラード、ケンドリュー、ワトソンを含めて多くの高名な生物学者が集まり、分子生物学のヨーロッパ研究所の設立が決議された。早速構想の一部が実施に移された。すなわち、若い研究者に各国の研究所で研究する機会をあたえるフェローシップやワークショップなどを助成する事業である。資金はフォルクスワーゲン財団が支援した。この助成組織は、研究所とは別にヨーロッパ分子生物学機構(EMBO)と名付けられた。EMBOの誕生と発展は、姿を現しはじめたばかりの分子生物学という学問を欧米に広めるのに大きな役割をはたした。

○EMBL構想の具体化と堂々巡りの議論
 EMBOは自前の研究員や施設をもつわけではない。それだけに体制の整備と資金の調達は容易であった。一方、研究所構想の方は、はるかに大きな資金と複雑な制度を必要とし、各国は自前の研究体制に深刻な影響を与えるのではないかと心配した。CERNの守備範囲である高エネルギー物理学の分野では、今や巨大な加速器が研究の必需品となっており、ビッグサイエンスという認識が定着している。しかし、生物学はまだまだスモールサイエンスで、大きな装置や集団は必要ないというのが一般の考え方であった。このため、それぞれの国内で十分研究できる、なぜ共同で国際研究所を設立する必要があるのかという大前提のところで、議論は堂々巡りを繰り返した。
 シラードが1964年に亡くなると、この難しい仕事はケンドリューの肩にのしかかった。ケンドリューは、ジャコブ、ペルツ、ブレナーなど国境を越えて多くの著名な生物学者の支持を広げ、彼らの協力をえて研究所構想の具体案をまとめた。この案では、まず分子生物学がヨーロッパにとって将来非常に重要な学問になること、こうした研究は一国ではまかないきれないことが強調された。つぎに基礎科学、国際協力、学際協力が強調され、フェローシップや短期滞在を通じた若手研究者の育成に大きな配慮がなされた。特に、科学者の頻繁な移動を重視した。研究所のスタッフの大部分は短期雇用とし契約が終われば次の研究所に移ることとした。移動性が重視された理由としては、研究所に常に新しいアイデアが還流する、新しい科学の流れにすばやく適応できる、ヨーロッパ域内に多くのポジションを用意できる、アメリカへの一方通行の頭脳流失を防ぐことができヨーロッパに優秀な分子生物学者のプールが形成できるなどであった。 
 
 
 
ケンドリュー(EMBL提供)

  新しい研究所のユニークさを強調するコンセプトであったが、設立についてはまだまだ意見の集約はできなかった。贅沢だ、これを認めればあらゆる分野で国際研究所をつくれということになる、分子生物学は一過性のものかもしれないなどの批判がつづいた。

○放射光の生物学への応用の画期的成果
 1968年になってEMBL設立に向けて事態は一歩前進した。EMBOの資金が切れるに当たって、それまで民間企業とイスラエル政府に資金をあおいでいたのを、各国政府が拠出することになった。分子生物学の発展とそれへの助成事業を各国が高く評価したのである。その際に研究所構想が政府レベルの協議事項に格上げされた。しかし交渉はなかなか進まない。イタリー、スイス、スペイン、フランス、ドイツ、オーストリア、デンマークは強く研究所を支持した。一方、イギリス、スウェーデン、ベルギー、オランダは懐疑的であった。自国の研究所の資金と人材を新しい共同研究所に吸い取られるのではないか、研究所の特徴が明確でないなど。各国の支持を得やすくするため規模は小さくされ、さらに今まであまり焦点があたっていなかった研究所のもつ大型設備を明確にすることになった。電子顕微鏡、NMR, 遺伝子配列の自動読み取り機などがメニューにあがった。なかでも、生物の構造解析のための新しい画期的な手法として放射光が注目された。
 丁度このころ1969年から’71年にかけて、イギリスの分子生物学研究所からハイデルベルグのマックスプランク研究所に移っていたホルムズたちが、ハンブルグにある放射光施設を利用して、画期的な蛋白質のX線回折法を開発した。この成果は’71年にNatureに掲載され世界中から注目を浴びた。それまではヘモグロビンなどの生体高分子のX線写真それも解像度の悪い写真を取るのに数ヶ月もかかっていた。それがわずかな時間で鮮明な画像をえられるようになったのである。ホルムズは、ケンブリッジで同僚だったケンドリューに、放射光が生物学にあたえる革命的な効果を説いた。ケンドリューは、自らも蛋白質のX線解析で苦労した経験から直ちにその重要性を理解した。さらに彼は、それが研究所構想の実現に向けて政治的にも重要であることを洞察した。

○放射光がEMBL設立の突破口に

ー放射光利用が物理学の寄生から生物学の本流へー
 ケンドリューは、EMBL構想の重要な柱に放射光の生物学への応用を含めることとした。そして、ハンブルグの放射光施設の一部をEMBLが整備し運転する計画を提案した。EMBL設立の長い交渉に決着をつける大きな決断であった。
 ところで、当時の放射光の生物学への応用は、実験の現場では大変骨の折れる仕事であった。放射光を発する加速器はもともと高エネルギー物理学のために作られたものであり、加速器に放射光の取り出し口を付けて実験をおこなうことは、物理屋にとっては厄介ものでしかなかった。ホルムズたちは、16時間の内にX線写真を取ることからビームラインへの装置の設置、取り外しまでやらなければならなかった。こうした厳しい実験環境の下で肩身の狭い思いをしながらの大殊勲であった。放射光利用が高エネルギー物理学に寄生していた時代である。
 こうした環境を解消し、生物学者が自由に放射光を利用できるようにするため、EMBLの下に専用のビームが建設され運転されることは、生物学者たちにとって願ってもないことであった。

○EMBLの設立
 放射光が決定打となって、EMBL設立の必要性はコンセンサスができた。次はヨーロッパに国際的な機関を作る時のおきまりの立地問題。1968年から候補地として、ノーベル賞学者モノー、ジャコブはフランスのニースを、ワイスコフはCERNのあるジュネーブを、そして’70年になるとドイツが参入しハイデルベルグを押した。結局’73年にハイデルベルグで決着した。これを踏まえて、1974年7月にEMBLの設立が政府間で正式に認められ、ケンドリューが初代所長に就任した。彼の粘り強い12年にわたる努力がやっと実を結んだのである。 
 
 
 
ハンブルグDESYサイトにあるEMBL支所(EMBL提供) 
 
 次は、研究分野の設定と人材の採用であった。ケンドリューは、分子生物学の大きな流れを見通して広くて柔軟な組織をめざし、生物構造、細胞遺伝、機器・技術開発の3部門を設定した。技術開発の部門が最初から持たれたのは、生物学研究所としてはユニークであった。分子生物学は技術の革新に支えられて発展するというケンドリューの哲学の反映であった。人材の確保は、ケンドリューの科学者ネットワークを介して、若い将来性のある研究者が採用された。 
 
○EMBLの発展とケンドリュー
 EMBLのハイデルベルグ本部の建屋は78年に完成した。また、ハンブルグの放射光施設にくわえて、76年からはグルノーブルにあるラウエ・ランジュヴァン研究所の中性子ビームラインの一部もEMBLによって整備・運営されることになった。ハンブルグとグルノーブルの放射光と中性子ビームを用いた構造生物学の研究は、次々に成果をあげ世界をリードした。さらにEMBLは、遺伝子配列のデータベース・ライブラリーでも世界の先陣をきった。技術と科学の相互作用の重視はEMBLの伝統となった。
 1982年にケンドリューはEMBLの所長を辞任する。構想から20年、彼は一貫してこのユニークな研究所の実現と発展に努めた。彼なしにはEMBLは成り立たなかった。彼が科学者の国連といわれる国際学術連合会議(ICSU)の会長職を長年勤め、世界中に友人のネットワークをもっていたことも、困難を克服する上で大切な支えとなった。一方で、放射光は、構造生物学の確立という学問の大きな飛躍に貢献しただけでなく、ヨーロッパの生物学者の夢であった共同研究所をつくる上で決定的な役割を果たしたのであった。
 
 
 
グルノーブルのESRFとラウエ・ランジェバン中性子研究所サイトにあるEMBL支所  
 
 
 
 
 最後に、ケンドリューが日本の主導する国際的な科学プログラムの成立に果たした大きな貢献について触れてこの稿を終えたい。現在フランスのストラスブールに本部をおいて、「ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム」という国際的な基礎研究助成事業が進められている。これは、若い研究者を中心とする国際的な研究チームに、脳機能の解明や分子生物学の分野で、グラントやフェローシップ、ワークショップなどを助成する事業である。スタートして今年で10年を迎え大きな成果を挙げてきた。このプログラムは、日本が主導する初めての多国間のそれも基礎科学プログラムということで、構想から開始まで数年にわたって多くの困難と紆余曲折に遭遇した。その間、事業の理念から内容、運営組織の細部の検討にいたるまで、レーダーバーグ、ロール、プリゴジン、グロー、ヘスなど欧米の多くの科学者のお世話になった。特にケンドリュー氏は、何回も開かれた検討委員会に出席され、ともすれば議論が大きく振れる議事の進行を整理し意見をまとめていただくなど、彼の分子生物学での業績とEMBL所長あるいは国際学術連合会議会長としての経験を生かして、プログラムの実現のために大きな貢献をしていただいた。
 
有本 建男 ARIMOTO  Tateo
(Vol.3,No.6,P59)



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[ - Vol.15 No.4(2010)]
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