Volume 03, No.2 Pages 16 - 20
3. 共用ビームライン/PUBLIC BEAMLINE
高エネルギー非弾性散乱BL08W実験ステーションの現状
Current Status of High Energy Inelastic Scattering BL08W Experimental Station
[1]理化学研究所 播磨研究所RIKEN Harima Institute、[2](財)高輝度光科学研究センター 利用促進部門 JASRI Experimental Facilities Divison
1.はじめに~共同利用開始まで
BL08Wは主として高エネルギー非弾性散乱、特にコンプトン散乱実験のためのビームラインで、 SPring-8共同利用ビームライン全体の立ち上げの中でも最初に立ち上げるビームラインのひとつとして位置づけられていた。コンプトン散乱の実験は、これまでKEK AR NE1に於いて60keVまでの光を使って行われていた。しかし、3d elementよりももっと重い物質を調べようとすると、より高いエネルギーが必要であった。そこでSPring-8の特徴を生かした 100keV以上の光を使うビームラインがサブグループより提案され建設に至った1)。BL08Wは、現在のところSPring-8で唯一のウイグラービームラインでもある。1997年5月にハッチの建設が終了し、その後分光器の据えつけ、ビームラインのコンポーネント並べを7月までに終え、8月に挿入光源を設置した。フロントエンドの設置完了、インターロック等のテストを終え、最初に光を光学ハッチ内に導いたのは共同利用開始直前の9月下旬であった。ハッチの放射線の漏洩検査を経て、最初に300keV付近の光を出す分光器の立ち上げが行われた。その後、利用実験としてコンプトン散乱の予備的な実験が行われてきた。
ビームラインの上から見たレイアウトを図1に示す。また、光学系の概念図を図2に示す2-4)。光学ハッチ内には300keV及び100~150keV用分光器が設置されており、300keV用分光器からの光は水平方向に振られて上流の実験ハッチAに導かれる。100 ~150keV用分光器からの光は上方向にはねられて下流の実験ハッチBに導かれる。実験ハッチAの中を100~150keVの光が通っているが、真空パイプのまわりは鉛で厳重にシールドされている。97年10月からは、実験ハッチAの300keV付近のビームが共同利用実験に供された。
図1 BL08Wビームラインの上から見たレイアウト。最初に光学ハッチ、そして300keVの光を導く実験ハッチA、100~150keVの光を導く実験ハッチBという構成になっている。
2.光学系~300keVモノクロメーターの立ち上げと評価実験5)
共同利用が始まって最初のビームタイムは、立ち上げた300keV用分光器の評価実験に使われた。分光器は放射線シールドのために真空チェンバーの外側全体を厚さ20mmの鉛で覆い、ハッチの鉛シールドの負担を軽減した。下流方向にも鉛の局所遮蔽体が置かれた。100keV以上の光しか使わないということで、フロントエンドのフィルターで使わない低エネルギー成分をカットし、結晶に対して熱負荷を 2kW程度以下まで低減した。結晶からの散乱X線(主として最大で100Wオーダーのコンプトン散乱)でチェンバー全体が暖まり、長時間スケールでビームの位置やエネルギーの変動が起きる可能性があったので、真空チェンバーの内側全体に水冷された銅板を張りこれを防いだ。300keV付近の光を回折する結晶はSi(771)面を[001]方向に成長したインゴットから800×60×30mm3の大きさのものを縦方向に斜めに切り出して使った。結晶面は地面に対して垂直に置かれ、Bragg配置でベンドすることによりビームの水平方向の発散に対してのみ集光する構造となっている。結晶は非対称角を約1度程度つけ、3 対1集光を実現できるように設計された。結晶のベンダーは基本的に4点ベンド方式であり従来のものと変わらないが、ベンダーの足の部分の温度変化が直接Bragg角を変化させないような構造にした。
光学系のアライメントの段階では、上記の厚い結晶をダイレクトに透過してくるビームが観測された。誰も経験がなかったせいもあるが少し苦労させられたのは300keVの光の検知であった。蛍光板は全く光らず、散乱体と組み合わせても同じであった。 KEK PFでよく使われているリナグラフも露光しなかった。イオンチェンバーは中身が空気の場合、全くシグナルを得ることはできなかった。唯一ポラロイド57のフィルムが秒オーダーの露光時間で感光したので、ビーム位置の割り出しや像の大きさのおおまかな確認に使うことができた。正確な像の大きさは、工業用X線フィルム(Fuji)を用いて測定が行われた。エネルギーの絶対値の測定にはSSD(Ge)が用いられた。
300keV用分光器の特性評価実験として、(1)エネルギー幅の測定、(2)ベンダーを使った放射光の集光実験が行われた。また、フォトンフラックスの値も概算された。結晶で回折された光のエネルギーは約300keV付近でありこのエネルギー付近で吸収端を持つ物質がないためKEK AR NE1で行われたように、吸収曲線の微分から分解能を見積もることはできない。そこで標準線源でエネルギー較正された SSD(Ge)を用いてエネルギー幅が測定された。その結果ベンドの条件が最適なとき、分光器だけで決まるエネルギー幅は294keVでdE/E=1.5×10-3であった。検出器を含めたエネルギー幅は上記のエネルギーで約3×10-3であった。フォトンフラックスは、約1×10-9 photons/s(@ ID gap=30 mm, I=20 mA)と概算された。ベンダーによる集光実験の結果の一例を図3に示す(フォーカス前と後ではx軸のスケールが違うことに注意)。この例では、 Kx=0.6の円偏光になっているためビームが上下に分かれている。最終的にサンプルの位置で約1~2mm以下に集光された良好なビームを得ることができた。また、結晶表面を lappingした効果を調べる実験も行われたが、効果はなかった。
図2 光学系の概念図。300keVの光は水平方向に振り、100~150keVの光は垂直方向に跳ね上げている。
図3 ベンダーによる集光実験の結果の例(フォーカス前と後ではx軸のスケールが違うことに注意)。この例では、Kx=0.6の円偏光になっているためビームが上下に分かれている。
図4 磁気コンプトン散乱(MCP)の実験配置の概念図
3.BL08Wにおけるこれまでの利用実験6, 7)
分光器の立ち上げ後は、姫工大坂井研のグループを中心に磁気コンプトン散乱(MCP:Magnetic Compton Profile)の予備的な実験が主として行われた。その実験テーマは、
(1)Fe(多結晶体)のMCPによる円偏光度分布測定(光の特性評価実験)
(2)挿入光源の極性反転を行う方法でのMCP測定
(3)超伝導磁石の極性反転によるCo単結晶のMCP の測定
(4)高い入射エネルギーにおけるコンプトン散乱の多重散乱の実験的評価の4つであった。
以下それぞれの実験について述べていく。
(1)FeのMCPを測定し、その典型的なデータから磁気的効果や運動量空間での分解能を見積もった。 Feのコンプトン散乱の典型的なデータからコンプトンピークの積分カウントは約31時間で、およそ1チャンネル当たり106カウントであった。測定データから運動量空間での分解能は274keVのX線に対して約0.55a.u.と見積もられた。これは新しい10素子型のGe検出器を使用することにより0.4a.u.まで改善できると期待される。また磁気的効果;[(I+)-(I-)]/[(I+)+(I-)]は274keVの光に対して約 1.6%と概算された。ただしI(±)は磁化ベクトルと光の入射ベクトルの相関が平行(+)、反平行(-)のときのコンプトン散乱強度を示している。
この結果を受けて、Fe(多結晶体)のMCPによる円偏光度鉛直方向の分布を測定した。MCPの実験配置の概念図を図4に示す。実験条件は入射エネルギーを274keV、Ge検出器は入射X線に対して 176.3°に設定した。またビームサイズは試料位置で垂直0.2mm×水平1mmとした。この実験ではFeは電磁石によって磁化させた。円偏光度のプロファイルはフロントエンドのスリットの縦幅を0.2mm、横幅は25mmとして鉛直方向にスキャンを行った。各ポイントでの測定時間は6000秒であった。図5にコンプトンおよび磁気コンプトンのプロファイルを示す。実線と点線はそれぞれI(+)とI(-)に対応し、一点鎖線がMCPに対応する。測定したMCPのプロファイルから求められた円偏光度Pcの鉛直方向のプロファイルを図6に示す。横軸にスリットの中心位置を、右の縦軸に強度、左の縦軸に円偏光度Pc をとった。ただし強度はモノクロからの(771)面の散乱強度を直接観測したものである。白丸は円偏光度Pcを黒丸は強度を示す。円偏光度Pcは光の中心位置で最大値Pc=0.78をとり、強度は最小値をとっている。また円偏光度Pcがほぼ0である位置で強度が最大値をとっている。この結果はSPECTRAによって計算された結果(図6の点線で示したグラフ)を支持するものである。
(2)挿入光源の極性反転を行う方法を用いてFeの MCP測定を行った。極性反転を行うと磁気的に硬い物質や強磁場で示す興味深い性質(メタ磁性・スピン再配列など)を持つ物質を測定することが可能となり、MCPの測定対象となる系が広がるという大きな利点がある。ただこの方法は一方の極性でコンプトン散乱を長時間測定しその後で他方の極性で測定しなければならず、入射X線の強度や偏光状態のゆらぎをモニターを行わなければならないがそれができないという問題点があった。しかし今回はこの問題点を坂井らが発案した方法で解決した7)。この方法を用いると高エネルギー側でのCuの前方のコンプトン散乱ピーク(250keV)と低エネルギー側でのPbの蛍光X線ピーク(76keV)とを、試料を測定している同じ検出器で検出することが可能となり、入射強度のみならず偏光状態をも含めた規格化に成功した。また長時間に及ぶ測定のためにアンプのゲインが時間的に揺らいでいるが、この補正もしている。今回この極性反転の方法で磁場を反転する方法と同程度の結果を得ることに成功した。
(3)超伝導磁石の極性反転によるCo単結晶のMCP の測定も行った。Coの磁化困難軸は強い磁場を必要とする測定である。そのため今回は超伝導磁石の立ち上げとその評価も兼ねて実験を行った。その結果、±2.5Tの磁場を周期的に反転させることができた。また、Coの磁化困難軸方向で飽和させてMCP の測定を行うことに成功した。この結果は現在解析中である。
(4)高い入射エネルギーにおけるコンプトン散乱の多重散乱の実験的評価を行ったがこの結果も現在解析中である。
図5 Fe(多結晶体)のコンプトンおよび磁気コンプトンのプロファイル。入射エネルギーは274keV。
図6 測定したMCPのプロファイルから求められた円偏光度P c の鉛直方向のプロファイル( 実線) とSPECTRAによって計算された結果(点線)。比較的良い一致を示している。
4.これから
BL08Wは、ほとんどすべてのコンポーネントがアンジュレータビームラインで使われているような標準品とは違うために、コンポーネント並べの段階からモノクロメーターを通して光を導くまで多くのトラブルがあったが、ひとつひとつこれらを解決し、放射光では世界最高エネルギーレベルの光を定常的に出すことができるようになった。結果として、 300keVモノクロメーターの立ち上げはうまくいったが、十分な精度の実験データを得るためにはさらにフォトンフラックスが必要であることがわかった。挿入光源のギャップ値がマシンオペレーションの関係から最小の20mmではなく30mmで運転されていること、蓄積電流がまだ最大でも20mA以下であること、そして、結晶自体からの回折強度が予想より小さかったことによる。ギャップ値を20mmにし、蓄積電流を100mAにすれば、強度は現在の値と比べて約80倍近くあがることがわかっており、これにより高精度の実験ができるようになると期待される。このとき、はじめて設計時のパワーが結晶に入ることになり、ヒートロードの影響がエネルギー幅により顕著に表れてくるものと思われる。また、今後は、高分解能のコンプトン散乱実験(実験ハッチ B)のために100~150keVモノクロメーターの立ち上げを順次行っていく予定である。
モノクロメーターから出てくるエネルギーが100 ~150 keV及び300keV付近ということで、これを使って実験するユーザーの数は現在のところそれほど多くはない。しかし、コンプトン散乱実験グループ以外にも、例えば原子核や非晶質の構造解析の分野にも利用に興味を示している人たちがいる。ユーザーは是非高エネルギーX線の利用の可能性も考え、 BL08Wのビームラインを有効利用してユニークでおもしろい実験を行っていって欲しいと思う。
謝辞
ビームライン輸送チャンネル及びモノクロメーターの立ち上げと評価、そしてコンプトン散乱の実験には、櫻井吉晴(理研)、大端 通(JASRI)、田中良和(理研)、姫工大グループの坂井信彦、小泉昭久、平岡 望、角谷幸信、生子雅章、高垣昌史の各氏が直接関わっている。また、ここに名前を記せないが、このビームラインもSPring-8の関係スタッフ、特に挿入光源、フロントエンド、ハッチ、インターロック、制御、ビームラインコンポーネント等に関して各グループの多くの人たちの協力なしには立ち上げることができなかった。ここに感謝の意を表したい。尚、この原稿は主として3節は水牧が、他は山岡が分担して執筆した。また、姫工大の坂井信彦氏に原稿全体を見ていただいた。
参考文献
[1]Y. Sakurai and N. Sakai, SPring-8 Annual Report 1994, pp 57-58; H. Yamaoka et al. , ibid 1995, pp 47-48; N. Sakai , ibid 1996, pp. 78-79.
[2]Y. Sakurai, H. Yamaoka, H. Kimura, X. Mar´echal, K. Ohtomo, T. Ishikawa, H. Kitamura, Y. Kashiwara, T. Harami, Y. Tanaka, H. Kawata, N. Shiotani, N. Sakai, Rev. Sci. Insrum. 66 (1995) 1774-1776.
[3]H. Yamaoka, K. Ohtomo and T. Ishikawa, J. Synchro. Radiation (1998) to be published.
[4]H. Yamaoka, T. Mochizuki, Y. Sakurai and H. Kawata, J. Synchro. Radiation (1998) to be published.
[5]山岡人志、他、日本放射光学会 第11回年会、 p11-A-26、1998年1月、播磨科学公園都市.
[6]水牧仁一朗、他、日本放射光学会 第11回年会、 p11-A-14、1998年1月、播磨科学公園都市.
[7]坂井信彦、他、日本放射光学会 第11回年会、企画3-4、1998年1月、播磨科学公園都市.
山岡 人志 YAMAOKA Hitoshi
昭和33年11月15日生
理化学研究所播磨研究所 先任研究員
〒679-5143
兵庫県佐用郡三日月町三原323-3
TEL:07915-8-2809
FAX:07915-8-2810
略歴:昭和57年北海道大学工学部卒業、
59年同大学院工学研究科修士課程修了、62年名古屋大学理学研究科博士課程修了。理化学研究所研究協力員、基礎科学特別研究員、研究員を経て理研先任研究員。理学博士。日本物理学会会員、日本放射光学会会員。最近の研究:放射光光学系の研究と開発、イオンと光との相互作用に関する研究。今後の抱負:放射光を用いた原子物理の研究。趣味:アルパインクライミング・フリークライミング。
水牧 仁一朗 MIZUMAKI Masaichiro
昭和43年4月4日生
(財)高輝度光科学研究センター
JASRI研究協力員
〒678-1298
兵庫県赤穂郡上郡町金出地1503-1
TEL:07915-8-0913
FAX:07915-8-0830
略歴:平成4年京都大学工学部冶金学科卒業、平成9年3月東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、同年4月JASRI研究協力員。工学博士、日本物理学会、日本金属学会会員。最近の研究:円偏光X線を用いた磁性体の研究。趣味:テニス。