Volume 01, No.2 Pages 24 - 26
4. 共用ビームライン/PUBLIC BEAMLINE
高エネルギー非弾性散乱ビームライン(BL08W)の概要
1.ビームラインの特色
このビームライン(以下BL:beam lineと略記する)の最大の特色は、100 keV-150 keVのどこか、および300 keVの単色X線が、しかも円偏光特性を含めて、利用できる点である。米国のAPSあるいは欧州のESRFでもX線の非弾性散乱実験用のBLを用意しているが、このような高エネルギー領域のX線の利用を基本設計とするBLは、このSPring-8のものが最初である。このBLの挿入光源は、高エネルギーX線を発生させる必要から、ウィグラーである。
BL08Wには100-keV用と300-keV用の2種類のモノクロメーターが直列に配置され、300-keVX線が下流で横に分岐して2本となり、それぞれに実験用のハッチが用意されている。100-keVX線は高分解能非弾性散乱実験用、300-keVX線は非弾性磁気散乱実験用となる[1][1]坂井信彦、櫻井吉晴、山岡人志、X.M.Marechal:高エネルギー非弾性散乱ー先行開発共同利用ビームラインの概要 SR科学技術情報 Vol.5, No.6(1995), pp.10-16.。
2.利用研究の特色
高エネルギー領域のX線の非弾性散乱は、いわゆるコンプトン散乱(X線と電子一個との散乱)が主要な散乱過程となる。従ってこのBL08Wではコンプトン散乱を利用した物性研究が主に展開される予定である。
電子と散乱したX線(電磁波)は、音波のドプラー効果と同様に、衝突する電子の持っている速度の影響を受けて、その散乱波長は電子の速度に比例した変化を受ける。この原理によって、散乱X線の波長(ないしはエネルギー)を測定すると、物質内で電子がどのような運動量を持って運動しているかが観測できて、物質の電子構造が運動量分布を手がかりに議論できる。運動量分布には電子多体効果、電子相関が反映される。見落としてはならないのは、コンプトン散乱法は物性に深く関わる金属のフェルミ面を実験的に決定するひとつの有力な手法になっていることである。フェルミ面の情報はド・ハース・ファン・アルフェン法や陽電子消滅法などが有名であるが、それぞれに対象物質や測定温度に制約がある。コンプトン散乱法にはこうした制約がないのでこれらの手法が難しい試料にたいして役立つ。さらに興味深いことは、“円偏光した”X線のコンプトン散乱には、電子の電荷によって引き起こされる電気的散乱と同時に、電子のスピンによって引き起こされる磁気的散乱が混ざっていることである[2][2]坂井信彦、田中良和:シンクロトロン放射光による磁気コンプトン 散乱応用物理 Vol.61, No.3(1992), pp.226-233.。このことから磁性体の電子スピンの運動量状態を捉えることが出来る。注目すべきことは、この磁気的散乱強度はX線のエネルギーが高くなるほど大きく、300 keVを越す辺りから電気的散乱強度と同程度にまでなることである。このような磁気的散乱の増大は他のX線の散乱には見られないコンプトン散乱特有の現象で、この特長は今後の磁性研究に明るい材料であり、SPring-8の利用研究の大きなセールスポイントのひとつになっている。
3.実験装置の特色
高エネルギーX線用のウィグラー挿入光源や、基幹チャンネル、さらにはモノクロメーターにはそれぞれに特徴があるが、それらはすでに情報誌[1][1]坂井信彦、櫻井吉晴、山岡人志、X.M.Marechal:高エネルギー非弾性散乱ー先行開発共同利用ビームラインの概要 SR科学技術情報 Vol.5, No.6(1995), pp.10-16.で紹介されているので、ここではモノクロメーターの下流に置かれる、特色のある実験装置について述べる。
これまでの放射光実験の経験から、日夜分かたず少人数で長期実験を行おうとすると、いかにして深夜の時間帯の体力消耗を減らすかが、大きな要因であることがわかっている。ことにこの BL08Wで展開するコンプトン散乱実験では、ひとつのデータを取るのに数日をかけることは普通なので、実験装置の自動運転化に特に配慮している。
具体的には超伝導マグネットの液体Heの供給作業の省略である。これまでの経験では約10時間毎に30リットル位の液体Heを供給する必要から、液体Heの調達を含めて最低2人が時には深夜に作業した。日本では実験サポート技術者集団が存在しないので、研究者は大切な実験データの解析や慎重な検討をする前に、実験装置の維持で体力的に限界に達して、長期実験は難行苦行の感がある。この弊害を無くすために、今回は超伝導マグネットの容器に小型He液化機を直結させ、蒸発 Heを容器内で直接液化させる方式を採用した。磁気コンプトン散乱実験では、3Tの磁場を10秒毎に反転させる必要があり、そのため液体Heの蒸発量も多いことが予想され、自動運転化にはこれからまだ技術的に確認すべき箇所がある。現在、鈴木商館の低温事業部で設計段階であるが、いくつかの工夫により1週間以上の連続運転が充分期待できる。[図-1]に現在の概念設計図を示した。超伝導マグネットは横置型で、室温ボア直径が50 mmある。ここに試料用の冷却器が組み込まれる。He容器の上部に別の冷凍機が2台設置され、一台は全体の熱遮蔽用、一台がヘリウム液化用である。マグネットの中心は床上1m40cm(X線の高さ)に合わせる必要があるので、装置全体が大型のxyz駆動架台の上に乗る。
図-1:高速反転超伝導マグネット概念設計図(鈴木商館低温事業部)
このBL08Wに特有な検出器がふたつ用意される。ひとつは300-keV実験の散乱X線のエネルギー分光に用いるGe半導体検出器で、ひとつは100-keV高分解能解析の実験で結晶分光器と組み合わせて使用する1次元位置敏感型検出器である。Ge半導体検出器は実験条件から、散乱X線のうち散乱角が180°になるべく近いX線を検出出来ることが好ましい。さらに測定時間を短縮させるには、多素子で同時測定できることが望ましく、フォトンファクトリーでの経験からも、13素子Ge検出器は威力があった[3,4][3]H.Kawata, Y.Tanaka, N.Sakai, M.Ito, F.Itoh, H.Sakurai and T.Iwazumi : A Magnetic Compton-Profile Spectrometer using a segmented Ge-SSD detector, Photon Factory Activity Report #8(1990), p342.
[4]Y.Tanaka, N.Sakai, Y.Kubo and H.Kawata: Three-Dimensional Momentum Density of Magnetic Electrons in Ferromagnetic Iron, Phys. Rev. Letters 70(1993), pp.1537-1540.。そこでSPring-8では10素子をドーナツ状にならべて、その中央の穴から入射X線を通し、試料に当たって後方散乱してくるX線を検出する事とした。現在Canberra社が担当して詳細設計に入っている。1素子の形状は有効断面積が100 m2厚さ 15 mmである。エネルギー分解能は122 keVのX線に対して500 eV以下を期待している。100ー300 keVのX線が測定対象となるので、このエネルギー分解能を確保するには、 Ge素子の実寸断面積は有効断面積よりかなり大きくなるはずである。
もう一方の一次元位置敏感型検出器は、これまでKEK-AR-NE1でのコンプトン散乱実験で使用してきたイメージングプレートに代わる検出器として開発しているものである。60-100 keVのエネルギー領域で充分な検出感度を持つ必要があるので、CdTe半導体をX線検知素子とする検出器を島津製作所の協力を得て開発中である。現在1チャネル0.25 mmで512チャネルの検出器が試作され、予備実験の結果、さらに高精度安定化を図らねばならない事がわかったが、改良に必要な予算措置の目処が立たず作業は中断している。最近 CdZnTe半導体素材で良好なX線検出器が市販され、技術開発も進んでいるので、近い将来に検出器開発予算が具体化して、このBL08Wで必要とする高エネルギーX線用の位置敏感型検出器が完成することを切望している。
4.これからの建設状況
BL08Wは1997年10月の共用開始を目指して、建設の準備が共同チームを中心として進められている。それぞれの構成要素の準備状況は次のようになっている。ウィグラー挿入光源は製作中(住友特殊金属)で、1997年の7ー8月にリングに設置される予定である。フロントエンドも製作中(アネルバ、オックスフォード、日立造船)で1996年7月から1997年1月にかけて設置される予定である。モノクロメーターは契約済み(IHI)で、現在製作図面検討中である。輸送チャンネルコンポーネントおよび実験用ハッチも契約済み(IHI、ヨシザワLA)で、現在製作図面検討中である。これらの準備に合わせて、BL08Wの実験準備室や試料準備室に置く実験機器やコンピュータなどの装備を整えて行くことになる。
建設に携わる利用者は現在12名が登録されている。国公立の大学および研究所(理化学研究所を含む)の研究者である。
文献
[1]坂井信彦、櫻井吉晴、山岡人志、X.M.Marechal:高エネルギー非弾性散乱ー先行開発共同利用ビームラインの概要 SR科学技術情報 Vol.5, No.6(1995), pp.10-16.
[2]坂井信彦、田中良和:シンクロトロン放射光による磁気コンプトン 散乱応用物理 Vol.61, No.3(1992), pp.226-233.
[3]H.Kawata, Y.Tanaka, N.Sakai, M.Ito, F.Itoh, H.Sakurai and T.Iwazumi : A Magnetic Compton-Profile Spectrometer using a segmented Ge-SSD detector, Photon Factory Activity Report #8(1990), p342.
[4]Y.Tanaka, N.Sakai, Y.Kubo and H.Kawata: Three-Dimensional Momentum Density of Magnetic Electrons in Ferromagnetic Iron, Phys. Rev. Letters 70(1993), pp.1537-1540.
坂井信彦 SAKAI Nobuhiko
昭和16年10月23日生
姫路工業大学 理学部 物質科学科 量子物性学講座
〒678-12 兵庫県赤穂郡上郡町金出地1479-1
TEL.(07915)8-0144
E-mail:n_sakai@sci.himeji-tech.ac.jp
略歴:昭和42年東京教育大学大学院修士過程(理学専攻)修了、同年より東京大学物性研究所放射線物性部門助手、52年理化学研究所研究員、同副主任研究員を経て、平成4年より姫路工業大学理学部教授。日本物理学会、日本化学会、日本放射光学会、日本金属学会会員。最近の研究、円偏光した放射光による磁気コンプトン散乱。今後の抱負、世界のハリマに協力。趣味:新幹線(相生-東京)で疲れない方法の研究。