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Volume 09, No.4 Pages 292 - 295

5. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTERS FROM SPring-8 USERS

第12回SPring-8施設公開 −何回見ても新鮮な驚き それはSPring-8!−
The 12th SPring-8 Open House -SPring-8 Never Fails to Bring us a Refreshing Surprise!-

(財)高輝度光科学研究センター 広報室 Public Relations Office, JASRI

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 第12回SPring-8施設公開が、西播磨フロンティア祭「スプリングフェア2004」の一環として、平成16年4月24日(土)に実施されました。公開された施設は、中央制御室、蓄積リング(マシン収納部)、実験ホール、長尺ビームライン実験施設、ニュースバル実験研究棟、線型加速器棟、放射光普及棟、および体育館(講演会場)でした。また、食堂と厚生施設(売店)が特別に営業したほか、食堂前のロータリーに男の料理教室や茶道部などが出店しました。今回は、ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊博士による科学講演会「やれば、できる。」が呼び物となり、前回を大幅に上回る3391人の入場者数を記録しました。東門から自家用車やバスで講演会場に直接入場した人々も加えると、総入場者数は4千人近かったのではないかと推定されます。この日は天候にも恵まれたため、午前10時の開場直後から、堰を切ったように満員の公園都市内巡回バスが次々到着し、総合受付のある中央管理棟前にはたちまち人々が溢れました。その人の波は、中央管理棟の玄関に吸い込まれ、らせん階段を上り、3階の通路を経て、中央制御室へと押し寄せました。普段は静かな制御室もこの日ばかりはバーゲンセール会場のような賑わいとなりました。

 中央制御室には、「VMEシステム展示」「つなげてみよう!光ファイバー通信」「デジタルビデオで記念撮影」「ITVシステムでSPring-8の中を見てみよう」と題した加速器部門およびビームライン・技術部門担当の4種の科学実演・工作コーナーが設けられていましたが、中でも、“プリクラ”を模したデジタルビデオカメラによる記念撮影コーナーは、順番待ちの老若男女の行列ができるほど人気を博していました(写真1)。ヘルメット、法被、作業服などのSPring-8仕様の小道具が家族連れや若いカップルに受けたようでした。撮影を担当する女子職員たちの親切な応対も高人気に一役果たしていたかもしれません。


写真1 「デジタルビデオで記念撮影」(中央制御室)



 蓄積リング(マシン収納部)は、例年と異なり、A中央のちょうど反対側のCゾーン(組立搬入室C近辺、BL26B1およびBL26B2の偏向電磁石、BL27SUのアンジュレータ近傍)が公開されました。入口のホールには、真空装置やビームモニターなどを展示したコーナー、水面下の楕円軌道を走る模型電車で波を発生させ放射光発生の様子を説明するシミュレーション・コーナーなどがあり、加速器部門およびビームライン・技術部門の研究員らが来場者に説明をしていました。この公開場所は、中央管理棟からかなり離れているため、構内巡回バスのみが来場者の移動手段となっていました。そのため、電子ビームのバンチングのように、バスが到着するたびに来場者のバンチ(集団)ができていました。その集団に一人の研究員がガイドとして付き、加速器収納部を案内しました。収納部内は蒸し暑いのにもかかわらず、来場者は研究員の熱のこもった説明に耳を傾けていました。

 施設公開のメイン会場ともいえる実験ホールには、多数のパネルが展示されたほか、ビデオコーナー(原研)と13カ所の科学実演・工作コーナーが設けられました。「さびを知ろう!~原子力材料からくぎまで~」(原研)「発光原理・干渉計」(加速器部門)「光通信セットを作ろう」(加速器部門)「遠隔制御を体験してみよう」(加速器部門)「光を使った空中浮遊実験」(ビームライン・技術部門)「CDで虹を見よう!」(利用研究促進部門Ⅰ)「立体視に挑戦」(ビームライン・技術部門/利用研究促進部門Ⅰ)「X線のレンズを自分で作ろう!」(利用研究促進部門Ⅱ)「カエルの心臓の動きが見られる!」(利用研究促進部門Ⅱ)「折紙でウィルスを作ろう!」(利用研究促進部門Ⅱ)「ホログラフィーで物を立体的に見てみよう」(理研)「たんぱく質分子が走るのを見てみよう」(理研)「液体窒素で凍らせて見てみよう」(理研)。この中には前回と同じテーマがいくつか含まれていますが、半数以上は新しい試みです。普段は人影も疎らな実験ホールも、この日はさながら祭の出店通りと化しました。光通信セットやCD分光器の製作コーナーでは、親子で真剣に工作に取り組む姿が印象的でした。光を使った空中浮遊実験では、大きな金属球やアンパンマン人形を空中に浮遊させることに子供たちが夢中になっていました(写真2)。光を使って磁石と金属球の間に働く力のバランスを制御し、金属球を空中に浮遊させるという高度なテクニックの原理は理解できなくても、自然界や実生活では目にすることのないこの不思議な現象に子供たちは(もちろん大人たちも)強く惹きつけられたようでした。浮遊した人形をくるくる回転させるとなかなか回転が止まらないことに気付いた子供は、将来のノーベル賞候補に間違いありません。バナナやバラの花を瞬時に凍らせてしまう液体窒素実験では、子供たちや高校生たちの驚きの声と歓声が絶えませんでした(写真3)。カチカチに凍ったバナナで釘を打ち付けるという、テレビでしか見たことのない実験を、現実に体験できた喜びが大きな歓声となって表れていました。百聞は一見に如かずという諺の現代版“百見は一体験に如かず”を証明するかのような光景でした。




写真2 「光を使った空中浮遊実験」(実験ホール)




写真3 「液体窒素で凍らせて見てみよう」(実験ホール)



 長尺ビームライン実験施設も移動手段が構内巡回バスに限られているため、来場者のバンチングが起きていました。アクセス上のハンディキャップはありますが、播磨科学公園都市を展望するのに絶好の場所にあるという立地条件を活かせば、来年以降の有望な公開施設として期待されます。兵庫県の放射光施設、ニュースバル実験研究棟では、パネルを使って、実験装置や研究成果の説明を研究員たちが行っていました。兵庫県の産業界と密接に関係しているので、特に地元の人々には関心をもっていただきたい施設です。

 線型加速器棟は実験ホール出口から徒歩で行ける距離にあるため、バンチング現象は目立たず、定常的に来場者が流れていました。最初に、電子銃付近に展示されたクライストロンモデルやパネルなどを使って、電子の加速について研究者たちが説明をしました。その後、来場者は、要所要所で研究者の説明を聴きながら、140mの線型加速器に沿って終端へと向かってまっすぐ進み、終端の少し手前で右折して出口に向かうコースをとりました。

 構内巡回バスの終点である放射光普及棟前の広場は、スタンプラリーの記念品交換所でもあるので、一通り見学を終えた人たちが立ち寄り、さらにその後、放射光普及棟を訪れ展示室も見学していました。放射光普及棟の大講堂は、大型スクリーンを備え、小柴博士の科学講演会の同時中継会場として使われました。

 小柴博士の科学講演会は体育館の特設会場で行われました。開場を待つ人々の長蛇の列が小柴博士の人気の高さを物語っていました。1090個用意した座席は完全に埋まりました(写真4)。大型スクリーンを使った同時中継会場でも、予想を越えた人数の聴衆が集まり、準備した椅子が足りなくなり、大勢の立ち見がでるほどでした。聴衆は1時間を越える講演に聴き入り、「本気で取り組めば必ずできる」という小柴博士の説得力ある話に感銘を受けていました。




写真4 「小柴昌俊博士科学講演会」(体育館)



 講演を聴講できなかった人のために、この貴重な講演の内容を紹介しておきます。小柴博士は、最初は、母親の死や小児マヒで苦労された幼年期・少年期の生い立ちや、横須賀中学(旧制)時代、第一高等学校(旧制)時代、東京大学時代の思い出話を、一語一語かみ締めるようにゆっくりと語られました(写真5)。演題の「やれば、できる。」の最初の例として、東京大学理学部物理学科の入学試験に合格するまでの猛勉強を上げられました。大学時代は生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れ、学業がおろそかになり、成績が振るわなかったと語られ、スクリーンに卒業時の成績表を映し出されました。大学卒業後、小柴博士は、当時創設されたばかりの大阪市立大学理学部の南部陽一郎教授のもとに理論物理学の武者修行に行かれました。南部研究室には、若き南部教授を筆頭に、早川幸男助教授、山口嘉夫講師、西島和彦助手、中野董夫助手と、後に物理学者として世界的に名を知られるようになる、そうそうたるメンバーが集っていました。小柴博士はその若き俊秀たちに混じって勉強しながら、理論物理学の難しさにもがき苦しんでいました。その頃の状況と心境を、一枚のファックス・メッセージをスクリーンに映し出して説明されました。そのファックスは、後年、小柴博士が文化勲章を受賞された際、お祝いのメッセージとして、シカゴ大学の南部教授から送られたものです。そこには、物理学の本を投げ出し、ふてくされて仰向けに寝ころんでいるチンパンジーの姿が描かれていました。そして、そこにメッセージが大きく添えられていました。「物理屋になりたかったんだよ。」(写真6)




写真5 「講演中の小柴昌俊博士」(体育館)




写真6 「南部陽一郎教授から送られたファックス・メッセージ」(体育館)



 その後、小柴博士は実験物理学の道を歩むことになります。原子核乾板を使った宇宙線の測定です。μ粒子やπ中間子を直接観測できることに魅せられ、素粒子実験を一生の仕事にしようと決心されました。丁度その頃、湯川秀樹博士を通して、原子核乾板を使った素粒子実験では世界の最先端にあった米国のロチェスター大学から留学の話がありました。しかし、推薦状がなければ留学は困難でした。そこで、ある高名な物理学者に推薦状を書いてもらうべく依頼をしました。その物理学者とは、それから10年ほど後にノーベル物理学賞を受賞することになる朝永振一郎博士です。朝永博士は小柴博士に、まず自身で推薦文を英語で書いてみるように勧めました。そして、書き上げた推薦文をご覧になられた朝永博士は、にやっと笑って署名をされました。推薦文には「彼の大学の卒業成績は良いとは言いかねるが、しかし、彼はそれほど愚かではありません」と書かれてあったそうです。これが、「やれば、できる。」の2番目の例です。

 小柴博士は人との幸運な邂逅に恵まれました。その一人が朝永博士です。小柴博士が在学していたときの第一高等学校の天野貞祐校長(哲学者、後に文部大臣)が朝永博士夫妻の媒酌人をつとめた縁で、小柴博士は朝永博士と親しくなりました。小柴博士の表現を拝借すれば、朝永博士は“物理は教わらなかったけれども酒は教わった”先輩ということになります。落語愛好家として知られる朝永博士は、居酒屋のような庶民的な酒場を好まれたようです。

 朝永博士のお墨付きを取り付けた小柴博士は、晴れてロチェスター大学大学院に留学することができました。そこでまた、すばらしい友人と出会うことになります。渡米後間もなくロチェスター大学で開催された素粒子の国際会議で、一人のアメリカ人物理学者と意気投合しました。「すき焼きを食べに来ないか」と自宅に誘ったところ、彼はすき焼きを食べにやって来ました。そのアメリカ人は、なんとあの有名なファインマン博士だったのです。それ以後何十年もの間、二人の親しい付き合いは続きました。奇しくも、ファインマン博士は朝永博士と同時にノーベル物理学賞を受賞しました。

 「やれば、できる。」の3番目の例として挙げられたのは、ロチェスター大学での学位の取得です。小柴博士は“馬車馬のごとく”必死に頑張り、入学後僅か1年8ヶ月で学位を取得しました。これはロチェスター大学における学位取得最短記録として残っています。

 それから、シカゴ大学で3年間研究生活を送った後、東京大学原子核研究所助教授として日本に帰国しましたが、しばらくして再びシカゴ大学に戻り、宇宙線観測用原子核乾板を積んだ世界最大の気球打ち上げ計画に参加しました。しかし、不運にもこの実験は失敗に終わりました。気球打ち上げの再計画が浮上したとき、新進気鋭の小柴博士がプロジェクトの責任者に指名されました。そして、小柴博士はその実験を成功に導き、みごとに大任を果たしました。

 再び帰国した小柴博士は、東京大学理学部の助教授となり、岐阜県にある神岡鉱山内の地下1000mのところに、巨大な水槽と多数の光検出器(光電子増倍管)からなる装置(カミオカンデと呼ばれる水チェレンコフ検出器)を設置し、陽子崩壊を検出する研究に取り組みました。限られた予算内で最大の効果を上げるためには、光電子増倍管の光検出感度を上げればよいことに気付いた小柴博士は、世界最大の光電子増倍管の製作に挑戦しました。そして、みごとに製作に成功しました。これも、「やれば、できる。」の一例です。その巨大な高感度光電子増倍管を設置したカミオカンデで、可能性の低い陽子崩壊の検出実験の替りに、太陽ニュートリノの観測を始めました。その頃、大マゼラン星雲で超新星の爆発が起こり、それに伴って放出されるニュートリノをカミオカンデはしっかり捉えていました。世界最初の超新星ニュートリノの観測でした。さらに、大気中で発生したμニュートリノがτニュートリノに崩壊する現象も発見しました。ニュートリノ天体物理学のパイオニアとなった小柴博士に、2002年のノーベル物理学賞が授与されました。



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[ - Vol.15 No.4(2010)]
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