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Volume 08, No.3 Pages 186 - 194

4. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTER FROM SPring-8 USERS

西播磨の文学碑巡り(I)
My Pilgrimage to Literary Stone Monuments in and around West Harima (Part 1)

尾崎 隆吉 OZAKI Takayoshi

(財)高輝度光科学研究センター 広報室 Public Relations Office, JASRI

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 歴史的な出来事や人物を後世に伝えるという目的のために建てられた記念碑や銅像は、人々の大勢集まる賑やかな場所にあり、なおかつ遮る物もなく陽光をさんさんと浴びる最も目立つ位置を占めています。それに対し、句碑・歌碑・詩碑などの文学碑は、概して、公園の片隅の樹木の陰や神社仏閣の境内の一隅といった、ともすれば気付かずに通り過ぎてしまいがちな人目につきにくい場所にひっそりと建っていることが多い。文学碑は陽当たりの悪い場所にあるものという印象を与えてしまう存在ではありますが、その文学作品もしくは作者と碑の建立地の土地柄との間には、必ずや深い結び付きがあるはずであり、その関連性を探るのも一興と思い、カメラ片手に西播磨各地の文学碑を一つ一つ丹念に訪ね歩きました。西播磨出身の偉大な文人の多いことも西播磨が文学とゆかりの深い土地柄であることも充分承知はしていましたが、その予想を遙かに越える数の文学碑が存在することに驚かされました。また、全国的には名を知られていないが地方の俳壇・歌壇・文壇で活躍し、地域の文芸活動に貢献した文人たちが数多くいることも、文学碑巡りを通して初めて知りました。文学碑の多さは、西播磨の人々の文学に対する関心の高さと教養の深さを示すものであると同時に、郷土が生んだ文人たちを誇りに思う西播磨の人々の郷土愛の強さを象徴するものでもあります。そして、文学碑という地味な存在の文化財に脚光を当ててみたいという思いから拙い文の筆を執ることにしました。

 なお、この文を書くにあたっては、それぞれの碑に付属する説明書き、および、文末に記載した資料などを参考にしました。


三日月町の芭蕉句碑

 佐用郡三日月町茶屋に、真栄山福仙寺という浄土宗西山派の寺があります。その寺の裏手、福森稲荷の本堂横の崖の中腹に、木立に護られるように芭蕉句碑がひっそりと建っています。


三日月や地は朧(おぼろ)なる蕎麦畠(そばばたけ)(*)

                     芭蕉吟


 この句碑の存在をインターネットの情報で知り、地元の人にその在処を尋ね、ようやく探し当てました。芭蕉がいかに「わび」「さび」を好んだとは言え、芭蕉の句碑にしてはあまりにも寂しい場所に建っている、というのが筆者の第一印象でした。

 一見、松尾芭蕉が当地、三日月を訪れた折りに詠んだ句ではないかと錯覚しますが、芭蕉が三日月を訪れたという史実はありません。文献[1,2]によると、この句は、芭蕉の「三日月日記」に載っているものであり、江戸深川の芭蕉庵にて名月を詠んだ一連の句の中の一つです。また、この句碑は、芭蕉の百回忌を少し過ぎたころ(1802年)、芭蕉門下の流れを汲む三日月の俳人たちによって建立されたといわれています。その後、倒れたままに放置されていた時期もあったようです。

 「三日月」も「蕎麦」もともに秋の季語です。三日月町では今蕎麦を栽培しています。古くから栽培されていたという話を聞いたことはありますが、筆者が検索したかぎりではそのような事実を記述した資料を見つけることはできませんでした。しかし、碑文としてこの句が選ばれたのは、「三日月」という言葉が句中に使われているからだけでなく、三日月の地では江戸時代にも実際に蕎麦が栽培されていたからではないか、と推察したくなります。


(*)『浮き世の北』(支考門可吟編)には「三日月に地はおぼろ也蕎麦の花翁」と記載されています[2]




三日月町の芭蕉句碑



相生市の文学碑

 相生市の文学碑は、中央公園、万葉の岬、若狭野町・矢野町などに集中しています。相生市の文学碑について書くにあたっては、主に参考資料[3][4]に拠りました。


(1)相生市中央公園

 相生湾の最奥部に相生市中央公園があります。その公園内の「文学碑の森」に数基の文学碑が点在しています。


①野口雨情中央公園詩碑

 相生市立図書館の門の脇に、「七つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」「十五夜お月」「青い目の人形」「船頭小唄(枯れすすき)」「波浮の港」など国民の愛唱歌としてよく知られた童謡や民謡を数多く作詩した詩人、野口雨情(明治15年~昭和20年)の詩碑があります。


  相生(おお)の港は なつかし港

  軒の下まで 船がつく

  雲の蔭から 雨ふり月は

  濱の小舟の 中のぞく


 この詩碑は、野口雨情が昭和11年4月、相生商工会の依頼で相生を訪れ作った詩「播磨港ふし」の第三節と十五節を刻んだものです。書は野口雨情の直筆によります。

 ところで、「しゃぼん玉」という童謡は、幼い子供たちの無邪気な遊びをうたっているように聞こえますが、実は、雨情の悲しい思いが込められているといわれています。雨情の長女は生まれてすぐに亡くなりました。そのような先入観をもってこの詩を読むと、確かに「しゃぼん玉 消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた」という一節には、亡き子への深い悲しみが込められていると感じます。

 なお、雨情の「播磨港ふし」の詩碑は、大島山にもあります。




野口雨情中央公園詩碑



②佐多稲子文学碑

 佐多稲子(明治37年~平成10年)は、女流文学賞・野間文学賞・川端康成文学賞・毎日芸術賞・讀賣文学賞を受賞した作家です。佐多稲子の父は播磨造船所に勤めていましたので、彼女は14歳から16歳にかけての少女時代を相生で過ごしています。彼女の長編小説「素足の娘」は、相生で暮らした経験をもとに、思春期の少女の揺れ動く心理描写を中心に、相生での日々の生活を描いたものです。相生が造船の町として急速に発展していく様子も克明に描写されています。ブロンズレリーフ(洋画家安岡明夫制作)に「素足の娘」から抜粋した一文を刻んだ文学碑が図書館の近くにあります。


 「ホ、素足のむすめがゆくぞい」と、囁くのを聞いた。

 この綽名(あだな)は、何か私にいじらしく思われた。

      「素足の娘」より     佐多稲子


 碑文は稲子が自ら選んだものであり、書も本人自筆によるものです。

 この文は、少女から大人へと変わろうとしている主人公の桃代が、冬というのに足袋もはかずに素足のまま、子犬と一緒に村の路を走っていくとき、その姿を目にした村の若者たちが囁く場面を表しています。「素足のむすめ」のその走りには、とり澄ました少女という足袋を脱ぎ去り、本来の自分の姿を素直にさらけだして、夢や憧れに向かってたくましく生きていこうとする強い意志が感じられます。

 相生に単身赴任していた稲子の父は、貧困の余り「芸者になりたい」と言いだした稲子を東京から自分のもとに呼び寄せました。最初に間借りした家は、相生(おう)という港町(現在の相生市相生一~五丁目)の蛭子神社(小説の中では恵比須神社と書かれています)近くの魚屋でした。大正中期の造船所の好景気によって相生の町が賑わう様子がこの小説から生き生きと伝わってきます。現在の相生市の中心部となっている旭一~五丁目あたりは、当時は、藪谷(やぶたに)とよばれる小さな農村でしたが、造船所の病院や社員住宅が建設されるなどして、徐々に造船町が形成されていった歴史などもうかがい知ることができます。

 稲子がこの小説を書いたのは36歳のとき(昭和15年)であり、すでに彼女はプロレタリア作家として世に知られていました。しかし、この小説からは、プロレタリア作家の雰囲気すら感じ取ることはできません。その意味でこの小説は、稲子の作品群の中で特別な意味をもつのかもしれません。

 「素足の娘」を読んだ読者はこれを稲子の自叙伝と思いがちです。文学碑建立にあたって寄せた稲子の文の中で、この小説は事実そのままの自叙伝ではなく虚構を加えているのだが、その虚構が事実として読まれてしまったために、実在の人物に深い迷惑をかけてしまった、と彼女は弁明しています[3]。しかしながら、筆者は、虚構はあるにせよ主人公の桃代は稲子自身にほかならないと思いながら「素足の娘」を読みました[5]




佐多稲子文学碑



③水守亀之助「野火」文学碑

 水守亀之助(明治19年~昭和33年)は相生市若狭野町下土井に生まれました。大正中期から昭和初期にかけて作家として活躍する一方、雑誌の編集者としてもその才能を発揮しました[4,7]。亀之助は、昭和12年、雑誌『野火』を創刊し、編集に携わりました。『野火』という誌名は、亀之助が唱えた文学理念「野火精神」「新鮮な野趣」を表しています[3]。「野火精神」は「枯れ草を焼いて新しい芽を育てる」という文学理念です。また、「新鮮な野趣」は在野精神を意味します。この誌名に因んだ文学碑が、図書館の正面に建てられています。


  野火燃不尽

  春風吹又生

        録白居易詩句      亀之助


 この碑銘は白居易(白楽天)の詩からとった一節であり、書は亀之助が自ら揮毫したものです。

 なお、相生市若狭野町の亀之助の生家跡には、小説「小さな菜畑」の文学碑があります。




水守亀之助「野火」文学碑



④半田鶏肋句碑

 半田鶏肋(けいろく)(明治30年~昭和3年)は相生市若狭野町野々に生まれました。姫路師範学校を卒業後、那波小学校に奉職しましたが、病のため31歳の若さで世を去りました。半田鶏肋は俳誌『ホトトギス』に入会し、岩木躑躅(つつじ)(高浜虚子門下の俳人、神戸在住、明治14年~昭和46年)に師事して俳句を作りました。その鶏肋の句碑が図書館の横に建っています。


  畦に火を放ち畑うつ男かな   鶏肋


 書は本人自筆によるものです。鶏肋の句にはほかに「蹲(うずくま)る眼に跳ぶ色や赤蛙」「日洽(あまね)き書斎うれしや福寿草」などがあります。鶏肋の没後出版された「鶏肋句集」に、師岩木躑躅が追悼句「故人日々遠く鶏頭赤きかな」を寄せています。




半田鶏肋句碑



④浦山貢文学碑

 浦山貢(みつぐ)(福岡県出身、明治32年~昭和24年)は、若い頃から俳句・短歌に親しみ、相生の播磨造船所に勤務の傍ら歌誌『飛魚(ひぎょ)』、また後に歌誌『断層』を創刊するなど地域の文芸活動に尽力しました。貢の句碑と歌碑が、中央公園の那波港を見下ろす丘の中腹に建てられています。


  冬日はとくさの直線       木霊

  しんじつに打ちこむことの尚難し

  桐の若葉は夕日に透きて     貢


 俳句は貢の自由律俳句集「茶の花」に、また、短歌は歌誌『断層』に掲載されています。木霊は貢の俳号です。

 この句碑・歌碑の建っている位置から、那波港をはさんで大島山公園が眼前に見えます。その大島山には、貢が入会していた歌誌『水甕(みずがめ)』の師石井直樹の歌碑が建てられています。

 貢は相生市歌の作詞者でもあります。また、「キューポラのある街」などの映画監督浦山桐郎氏は貢の子息です。




浦山貢文学碑



⑥丸山海道句碑

 丸山海道は京都出身の俳人で、俳誌『京鹿子』を主宰しました。昭和58年より毎年、相生市俳句祭の選者、講師を務めました。これを記念して、中央公園の噴水の隣に海道の句碑が建立されました。


  魚眼には球体を駆けペーロン船   海道


 書は海道直筆によるものです。




丸山海道句碑



⑦縄の浦日置少老万葉歌碑

 公園の小高い丘の上に縦長の万葉歌碑があります。


  縄(なは)の浦に塩焼く火気(けぶり)

     夕されば行き過ぎかねて山にたなびく


 万葉集巻三の中の、旅愁を詠んだ日置少老(へきのをおゆ)の歌です。縄の浦は現在の那波(なば)海岸、あるいは相生湾をさすものと解釈されています。書は神戸大学名誉教授吉川貫一氏揮毫によるものです。




縄の浦日置少老万葉歌碑



(2)大島山公園

 那波港の入り口にある小高い山、大島山は城址でもあります。頂上には神社や寺があります。ここに2基の文学碑があります。


①石井直樹歌碑

 石井直樹(岡山県出身、明治23年~昭和11年、本名直三郎)は、東京帝国大学国文科卒の国文学者であり、また、尾上柴舟門下の歌人でもありました。歌誌『水甕』(尾上柴舟主宰)などを創刊しています。『水甕』の門弟であった浦山貢の文学碑を対岸に見下ろす場所に直樹の歌碑が建っています。あたかも愛弟子を暖かく見守っているかのように。


 おほぞらに ただよふくもの しらくもの

 

 さびしきあきに なりにけるかな   直樹


 長姉の嫁ぎ先岡田家と『水甕』支社のあった那波を直樹は度々訪れたといいます。直樹が亡くなった翌年、縁故者や門人達によりこの歌碑が建立されました。書は本人自筆によるものです。




石井直樹歌碑



②野口雨情大島山詩碑

 大島山の善光寺の隣に、野口雨情の「播磨港ふし」の中で、「那波の大島」が詠われた一節を刻んだ詩碑があります。


 那波の大島椿の花は 春の桜の中に咲く


 書は雨情直筆によるものです。




野口雨情大島山詩碑



(3)万葉の岬

 相生湾は、最奥部が深く陸地に切れ込んでいるため、湾内は波静かで、自然の良港として古くから栄え、明治時代には湾頭に造船所が創立され、後に造船業の町として繁栄するべき好条件を備えていました。相生湾は港として優れていただけでなく、風光明媚な瀬戸内海の一部でもあります。いにしえ人が相生湾を眺めてその美しさに感動したことは、想像に難くありません。相生湾の先端は、東の金ヶ崎、西の釜崎という二つの岬に挟まれています。金ヶ崎の頂上からは、眼前に浮かぶ地ノ唐荷島・中ノ唐荷島・沖ノ唐荷島・君島・鬘(かづら)島(蔓島とも書き、また、お椀をひっくり返した形に見えるところから地元では「おわん島」あるいは「ゴハンサン」とよばれているらしい)などの小島をはじめ、遠くは淡路島・家島諸島・小豆島などの瀬戸内海の島々を眺望することができ、この辺りは「万葉の岬」と呼ばれる景勝地となっています。ここに3基の万葉歌碑が建っています。


①縄の浦山部赤人万葉歌碑

 金ヶ崎頂上から西に伸びる小さな尾根の上に、瀬戸内海を背にして、山部赤人の万葉歌碑が建っています。山部赤人は歌仙と称された奈良時代の歌人であり、西国のみならず関東にまで旅をしていたらしい。


  縄(なは)の浦ゆ背向(そがい)に見ゆる沖つ島

         漕ぎ廻(み)る舟は釣しすらしも


 万葉集巻三、山部赤人の旅詠で、伊予温泉(道後温泉)へ旅をした折りの歌と考えられています。「沖つ島」は鬘島や君島をさすものと解釈されています。書は京都大学名誉教授澤瀉(おもだか)久孝氏の著書「万葉集注釈」(中央公論社)の原稿から採字したものです。




縄の浦山部赤人万葉歌碑



②山部赤人辛荷島万葉歌碑

 相生市営国民宿舎「あいおい荘」横の公園内に、「辛荷(からに)の島に過(よぎ)る時に山部宿禰(すくね)赤人の作る歌一首併せて短歌」と題して、万葉集巻六の山部赤人の長歌と反歌三首を刻んだ碑があります。赤人が瀬戸内海を舟で旅しているときに詠んだ望郷の歌です。この長歌および反歌に登場する「辛荷の島」は眼前に浮かぶ唐荷島3島のことです。また、野島(淡路島)、印南(いなみ、現在の高砂あたり)、細江(姫路市飾磨区細江)といった地名も出てきます。




山部赤人辛荷島万葉歌碑



③鳴島万葉歌碑

 「あいおい荘」横の公園内に、椿に囲まれたもう一つの万葉歌碑があります。


 室(むろ)の浦の湍門(せと)の崎なる鳴島

 (なきしま)の磯越す波に沾(ぬ)れにけるかも


 万葉集巻十二、作者不詳の歌です。「室の浦」は室津から金ヶ崎までの湾、「鳴島(ナキシマまたはナルシマ)」は眼下に浮かぶ君島、そして「湍門」は岬と島に挟まれた狭い水路をさすものと解釈されています。瀬戸内海を舟で旅する折りの旅愁を詠っています。書は大阪大学名誉教授犬飼孝氏の揮毫によります。




鳴島万葉歌碑



(4)若狭野町・矢野町

 相生市の若狭野町および矢野町には、4基の文学碑があります。中世のころ主要街道であった古山陽道(現在の県道5号線)が矢野を通っていたため、この辺りの文化的水準は古来高かったといいます。4基の文学碑はその文化的水準の高さを象徴するものといえるのではないでしょうか。


①水守亀之助「小さな菜畑」文学碑

 水守亀之助(明治19年~昭和33年)の生家跡(若狭野町下土井)に、彼の小説「小さな菜畑」の文学碑があります。


 滴るやうな朝露に濡れたのが日光をうけて、美しい光沢を放ってゐる山東菜や、朝鮮白菜や、体菜などの厚みのある、柔らかさうな菜が見事に折重って、勢ひよくのび育ってゐるさまを見てゐると、私は不思議にも一種荘厳な感にうたれざるを得なかった。(以下、省略)


 この小説は、大正8年、雑誌『早稲田文学』に発表された彼の出世作です。一人暮らしをしてまでも頑なに先祖伝来の家と土地を守り続けようとする祖母を題材に、その死に至るまでの彼女の土着的な生きざまを描いています[6]。同年、雑誌『文章世界』に発表した小説「帰れる父」が「いぶし銀の味わい」と高く評価され、新早稲田派の一人に数えられるまでになったといいます。その後、「闇を歩く」、「傷ける心」、「我が墓標」と次々と作品を世に出しました。創作活動の一方、雑誌『随筆』や『野火』の編集活動にも精力を注ぎました。彼の編集者としての能力は高く、川端康成や佐藤春夫など後に大作家となる人たちも育てています。しかし、太平洋戦争のため『野火』は廃刊となり、さらに、彼は東京大空襲で家族も財産も一切失い、晩年は不遇であったといいます[4,7]




水守亀之助「小さな菜畑」文学碑



②青木月斗句碑

 正岡子規直門の俳人、青木月斗(げっと)(大阪生まれ、明治12年~昭和24年)の句碑が、矢野町瓜生の芳賀家の庭にあります。


 くろぐろと山が囲める夜長かな   月斗


 この句は、昭和11年、月斗が門弟の芳賀士白(富士雄)を訪れたときに、句会において「秋の夜長」と題して詠んだものです。書は月斗自筆によるものです。

 月斗が明治32年に創刊した俳誌『車百合』には、子規が「俳諧の西の奉行や月の秋」という祝句を寄せているほか、同門の高浜虚子、河東碧梧桐(月斗の義弟)らの句も掲載されています。後に月斗は俳誌『同人』を主宰し、子規の祝句の通り関西俳壇の雄として活躍しました。句集「月斗翁句抄」のほか評論などの著書があります。月斗の代表的な句に「元旦や暗き空より風が吹く」「天墨の如し大雪になるやらん」「臨終の庭に鶯鳴きにけり」などがあります。




青木月斗句碑



③秋窓・指月句碑

 瓜生羅漢石仏で有名な羅漢の里の入り口近くに、子規門下の俳人、芦田秋窓(しゅうそう)(明治16年~昭和41年)と、その門弟である女流俳人、岡田指月の師弟の句を対にして刻んだ一基の句碑があります。


 立木如来拝めばすなり秋の声   秋窓

 合掌す手に岩苔の露しづく    指月


 芦田秋窓は俳誌『大地』を主宰するなど大阪の俳壇で活躍するとともに、俳画誌『白扇』を創刊して俳画の世界でも足跡を残しています。秋窓・指月の両氏は、『白扇』矢野支部会員に招かれ度々矢野を訪れたといいます。この句碑は矢野支部会員が昭和32年に建立したものです。




秋窓・指月句碑



④矢野神山万葉歌碑

 矢野町森の磐座(いわくら)神社の境内に、柿本人麻呂の歌二首を刻んだ碑があります。


妻籠もる矢野の神山露霜に

    匂ひそめたり散らまく惜しも

朝露ににほひそめたる秋山に

    時雨な降りそあり渡るがね


 二首とも柿本朝臣人麻呂歌集に出ている歌です。また、万葉集巻第十「秋の雑歌 黄葉を詠める四十一首」の中に出ています。書は「西本願寺本万葉集」によります。

 磐座神社のご神体として背後にそびえる権現山(ごんげんやま)は、鋭く尖ったその山頂と山頂直下に露出している天狗岩とよばれる巨大な三角形の岩肌が近寄りがたい険しさを感じさせる山です。さらに、巨大な岩の突出した高巌山(たかいわやま)が背後に控えています。権現山の山容は、神の宿る山に充分ふさわしい風格を備えているといえます。

 磐座神社の名は巨岩に由来するといいますから[8]、天狗岩もしくは南側の小ピーク竜王山山頂にあるという大岩が信仰の対象となっているのでしょう。歌中の「矢野の神山」の所在に関しては諸説あり、その中で権現山説は残念ながら有力ではないらしい[4]

 しかし、我田引水の嫌いは多少ありますが、権現山説を裏付ける根拠もないことはないようです[3]

 筆者自身はといえば、権現山の威厳ある姿といい、磐座神社の紅葉の見事さといい、権現山こそ「矢野の神山」にふさわしいと思うし、権現山説を支持したいと思う一人です。




矢野神山万葉歌碑



参考資料

[1]三日月町史 第四巻 史跡(三日月町)

[2]新編日本古典文学全集70 松尾芭蕉1 全発句(小学館)

[3]林良作編集「相生と文学碑」(相生市文学碑設立協会)【相生市立図書館所蔵】

[4]相生市中学校国語研究部会編集「相生の文学」(相生市教育委員会)【相生市立図書館所蔵】

[5]新潮日本文学23 佐多稲子集(新潮社)

[6]「小さな菜畑」「帰れる父」ほか -水守亀之助郷土作品集-(相生市文学碑設立協会)【相生市立図書館所蔵】

[7]桑本幸信著「水守亀之助伝」【相生市立図書館所蔵】

[8]SPring-8利用者情報Vol.6,No.4、内海渉「播磨テクノラインに沿って」


尾崎 隆吉 OZAKI Takayoshi

(財)高輝度光科学研究センター 広報部

〒679-5198 兵庫県佐用郡三日月町光都1-1-1

TEL:0791-58-2785 FAX:0791-58-2786

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[ - Vol.15 No.4(2010)]
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