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Volume 06, No.6 Pages 462 - 468

4. 談話室・ユーザー便り/OPEN HOUSE・A LETTER FROM SPring-8 USERS

西播磨の古刹巡り
My Pilgrimage to Old Temples in and around West Harima

尾崎 隆吉

財団法人高輝度光科学研究センター

広報部

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 西播磨およびその周辺には真言宗や天台宗といった山岳仏教の古刹が数多く点在しています。車を使ってさえも辿り着くのに苦労するほどの深山に、かつて「西の高野山」と称されるほどに栄えた密教道場が何カ所も存在したというのは驚きです。それらの寺々を巡ってみると、西播磨全体が聖地であったかのように思えてきます。SPring-8の近辺および周辺にある古刹のうち筆者がよく訪れる7寺院を紹介したいと思います。

大通宝山富満寺(とどまじ)万勝院

 SPring-8に赴任して最初に訪れた寺が万勝院でした。上郡町の人里離れた富満(とどま)高原の中央に位置する東寺真言宗の寺院です。直線距離にすればSPring-8から2~3kmほどしか離れていませんが、寺院に至る実際の道程はかなりあります。現在では大富トンネルが開通し上郡町野桑から大富を経て比較的直線的にアクセスできるようになりましたが、筆者が最初に訪れた当時は、三通りあった道順のいずれを選んでもかなり道程がありました。因みに、その三通りの道順とは、三日月町三原から大畑(葡萄の産地)を経てくねくねとした高原の道を延々辿るコース、上郡町野桑稗田から農道のような細い道とうっそうとした杉林を通り急勾配のつづら折りの山道を登るコース、上郡町野桑本村から県道449号線を使うコース、です(この第三のコースには、落石注意の標識の立つ渓谷や見上げるほど急勾配の坂道があり、参道としては薦められません)。

 通称「ボタン寺」ともよばれているように、124品種1万余輪の牡丹が咲き誇る牡丹園で有名です(牡丹園については、「SPring-8利用者情報Vol.4No.6,1999」の本コーナーで筆者が書きましたので、そちらも参照下さい)。毎年、開花期の4月下旬から5月上旬にかけて大勢の見物客が訪れます。

 万勝院は奈良時代の名僧行基菩薩によって開創され、当時は広大な寺域に7堂伽藍32宇が建立され、「西の高野山」と称されるほど栄えたと伝えられています。その後荒廃しましたが、平安時代に弘法大師空海によって再興されました。室町時代の嘉吉の乱の際、赤松氏の拠点であった万勝院は戦場と化し、赤松一族の滅亡と同時に全堂宇が消失しました。しかし、後に奇跡的に復興した赤松氏が万勝院を再興しました。江戸時代には姫路城主池田輝政の寄進により万勝院を本坊として富満寺6院33坊が再建されました。明治時代になり5院が廃院され万勝院1院のみとなり現在に至っています[1]

 本尊の如意輪観世音菩薩、脇佛の不動明王、毘沙門天の三尊が本堂に納められています。これらは秘佛であり、33年ごとに開扉されます。本堂の左隣に、古刹と呼ぶにふさわしい茅葺き屋根の開山堂があります。これは開山者の行基菩薩を祀る御堂です。銀杏の大樹が本堂の前にそびえています。秋になると銀杏の実をたくさん落とします。晩秋には黄色い絨毯を敷き詰めたように銀杏の落ち葉が地面を覆い、夕暮れになっても本堂の前だけスポットライトが当たっているかのように明るく輝いています。霊験あらたかな光にも見えます。

 SPring-8から車で20分ほどで行けるようになりましたので、筆者は四季折々よく万勝院を訪れます。牡丹のほかにも桜、紫陽花、黄金蓮、萩などが咲き、また紅葉の色も鮮やかです[写真1]。筆者は毎年大晦日から元旦にかけて万勝院を訪れ、地元の人たちにまじって除夜の鐘を撞かせてもらっています。



写真1 万勝院の紅葉


済露山高蔵寺

 三日月町にある真言宗御室派の寺であり、播磨西国三十三ヶ所霊場第十番札所でもあります。開創は古く奈良時代725年、行基によってなされました。三日月藩主森家の菩提寺でもあります。京都宇治の西国三十三ヶ所霊場第十番札所三室戸寺の三重塔は1910年(明治43年)高蔵寺から移築されたといいますから、江戸時代はかなり大きな寺であったと想像されます。

 国道179号線から県道433号線に入ってすぐ高蔵寺入り口の看板が見えます。つづら折りの急峻な山道を登っていくと山の中腹に寺があります。石段の上の山門をくぐると左手に本堂[写真2]、本堂左側に鐘楼、本堂右側に薬師堂が建っています。本堂には本尊の千手千眼観世音菩薩が安置されています。薬師堂には布袋尊も祀られています。鐘楼の近くには、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。」という平家物語の有名なくだりに登場する沙羅の木が植えられています。沙羅の木は、釈尊が涅槃に入ったとき四方に立っていた沙羅双樹に因んで寺院の境内に好んで植えられています。夏椿ともよばれ、初夏に白い花をつけます(福崎町の應聖寺は「沙羅の寺」として有名です)。

 ここの鐘楼の鐘は自由に撞くことができます。ただし、「帰りには撞かないでください」との注意書きが添えられています。宗教上の謂われがあるのでしょうか。鐘の音を録音するために広報部の人たちとこの鐘楼を訪れたことがあります。鐘を撞いてから鐘の周りをぐるりと一周すると、腹(音の大きな部分)と節(音が聞こえない部分)がそれぞれ4ヶ所あることがわかりました。円形の鐘が縦方向と横方向の2方向に振動していることが想像されます。また、鐘の中に頭を入れてみました。さぞかし耳をつんざくような大音響と思いきや、鐘の中央は音がかすかに聞こえる程度の静けさでした。4方向からの音波が互いに干渉し合って鐘の中央は無音状態になっていると推測されます。それまで鐘の音を科学的な関心をもって聴いたことがなかったので、興味深い経験をしました。

 つづら折りの参道の紅葉の鮮やかな色合いは、近隣で見かける数ある紅葉の中で最も印象に残っています。寺周辺の山林はシイの自然林として保護されています。特にツブラジイ(ブナ科)は三日月町指定の天然記念物です。山の反対側の道路からアクセスすると終点に駐車場がありますが、その駐車場の脇に「かねかけの松」とよばれる2本の松の木が立っています。願主の名前を書いた紙札を松の枝に結びつけると金運を授かるといいます。

 高蔵寺はSPring-8から車で15分、思い立った時にはいつでも行ける距離にあります。また、寺の開放的な雰囲気が気に入り、度々訪れました。我が家は毎年正月三ヶ日に参詣し、住職の話を伺い、縁起物の干支の切り絵をいただいて帰ります。その切り絵も4枚になりました。



写真2 高蔵寺本堂


斑鳩寺(いかるがでら)

 新西国霊場第三十二番霊所、西国薬師第二十三番霊所として知られる天台宗の寺です。太子町鵤(いかるが)にあります。開創の歴史は古く、飛鳥時代に遡ります。606年聖徳太子は推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)と法華経を講讃し、それにいたく感応した推古天皇は聖徳太子に播磨国の土地を賜りました。太子はその荘園を鵤荘(いかるがのしょう)と名付け、その中心に斑鳩寺を建立しました。その後、法隆寺支院として七堂伽藍、数十の坊庵をもつまでに栄えましたが、室町時代1541年に戦禍に遭い堂塔伽藍はすべて焼失しました。しかしながら、龍野城主赤松氏らの寄進を得て、楽々山(ささやま)円勝寺円光院の昌仙法師らによって再建され、現在に至っています。昌仙法師が天台宗であったことから斑鳩寺も天台宗に改宗されました[2, 3]

 山門(仁王門)を入ると正面に講堂があります。1556年に再建され1765年に再修造されています。安置される本尊は止利仏師の作と伝えられる薬師如来、釈迦如来、如意輪観世音菩薩の三尊です。いずれも秘仏とされ、春会式(太子の縁日法要、2月22日~23日)に開帳されます。

 講堂の右側には朱色の三重塔がそびえています[写真3]。現在の塔は1565年赤松氏らにより再建されたものです。再建後そのままの状態を保っている唯一の建造物です。輪柱に太子伝来の仏舎利が納められています。

 講堂の左側には聖徳殿があります。1551年に再建され1665年に修造さています。聖徳太子自作の聖徳太子十六歳孝養像「植髪の太子」が祀られています。聖徳殿奥殿は八角造りになっていて法隆寺の夢殿を彷彿させます。奥殿は1916年に増築されたものです。

 世界遺産に登録された世界最古の木造建築物である法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれます)が建立されたのが607年、それにわずかに遅れて播磨国斑鳩寺が開創されました。現在の建造物は法隆寺に比べればずっと新しいにもかかわらず、山門をくぐるとまず境内全体に漂う不思議な“古さ”を感じます。播磨にいながらにして奈良の雰囲気を味わえる寺です。



写真3 斑鳩寺三重塔


船越山南光坊瑠璃寺

 南光町船越山にある高野山真言宗の別格本山です。新西国霊場第三十三番霊所、新西国巡礼の満願打ち止めとなる寺でもあります。奈良時代728年聖武天皇の勅使寺として行基菩薩により開創されたと伝えられています。

 県道72号線から参道に入ってすぐのところに山門があります。渓流沿いに杉木立の中の参道を1kmほど登ると漸く門が見えます。石段上の門を入ると正面に本坊、その裏手に護摩堂、聖天堂があります。本坊右手の少し離れたところに常福院、さらに奥に進み細長い石段を登ると鐘楼と本堂があります。

 本堂には本尊の千手観世音菩薩が安置されています。本堂境内からは常福院、護摩堂、聖天堂を見渡すことができます。この10月に訪れたときは、常福院庫裡の改新工事の最中で、ちょうど屋根の葺き替えが終わったところでした。あかがね色の真新しい銅葺き屋根が薄暮の山中に異彩を放っていました。銅は酸化しやすいので、この無垢のあかがね色の輝きを見られるのもほんのわずかの期間と思われます。本堂石段の脇に杉の大木が数本あり、その中に一際太い杉が1本あります。推定樹齢500年、高さ約50mの観音杉とよばれる大杉で、南光町指定の天然記念物です。スギ花粉症で悩んでいる筆者は観音杉の前を通るたびに祈ることにしています。事実、播磨に来てから症状がかなり軽くなりました。

 参道(登山道)を1kmほど登った船越山中腹に奥の院が建っています。つづら折りの登山道の登りは相当きつく、小一時間はかかります。奥の院の参拝には登山の覚悟が必要です。道の途中に貴重な大樹が3本あります。薬師杉とよばれる大杉、推定樹齢300年の大トチノキ、推定樹齢60年の落葉高木ヨコグラノキで、後二者は南光町指定の天然記念物です。奥の院に近づくと堅牢な石垣が見えてきます。その上に鐘楼と薬師堂が建っています[写真4]。この鐘楼の鐘はひびが入っているらしく、力いっぱい撞いても鈍い音がするだけでうなりがほとんど聞こえません。薬師堂の扉はいつも閉じていて、参拝者が自らの手で開閉しなければなりません。「猿が堂内に入りますので参拝後は必ず扉を閉めてください」という内容の注意書きの札が扉に掛けられています。堂内は入り口からの自然光が唯一の明かりで、扉を閉めると真っ暗闇になります。ロウソクと線香は置かれていますが、火気には充分注意が必要です。薬師堂には薬師如来像が安置されています。

 この10月筆者が訪れたとき、猿の群れが奥の院にやってきました。近くにあるモンキーパークの猿なのか、人間を全く恐れません。堂の縁の下に潜るもの、薬師堂の屋根に上って走り回るもの、屋根から木の枝に跳び移るもの、境内を走り回るもの、奥の院を遊び場としてわがもの顔に振る舞っていました。小猿や子連れ猿が平然と筆者の脇を通っていきました。ボスとおぼしき猿が、カメラを構えた筆者を監視しているのか離れたところから筆者の方をじっと見ていました。猿たちはひとしきり戯れると潮が引くように山中に消えていきました。猿の群れに出会えた幸運に感謝し奥の院を後にしました。



写真4 瑠璃寺奥の院薬師堂


恵龍山大聖寺(えりゅうざんだいしょうじ)

 奈良時代738年聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩により開山された真言宗の別格本山であり、西播磨に隣接する岡山県作東町にあります。開山以来、真言密教の根本道場として栄えましたが、1578年秀吉の上月城攻めに始まるいくたびかの戦火により全山焼失しました。現在の本堂(不動院)など主な建造物は津山藩主森忠政(本能寺の変で信長と共に討ち死にした森蘭丸の弟)によって1604年頃再建されたものです。本尊は本堂(不動院)の不動明王、本坊(蓮華浄院)の愛染明王、観音堂の如意輪観世音菩薩の三尊です。不動明王、愛染明王は秘仏のため公開されていません[4]

 「あじさい寺」とよばれているように紫陽花園が有名です。広大な境内に5000株を越す白、ピンク、青など各種の紫陽花が6月中旬から7月中旬にかけて咲き乱れます。紫陽花園としての規模の大きさは岡山県下随一といわれています。最盛期は全山が紫陽花に覆われたかのように見えます。多宝塔が紫陽花に囲まれて建っています。

 本坊の門前に天然記念物に指定された大銀杏が2株並んでいます[写真5]。推定樹齢300年。吉川英治の小説「宮本武蔵」に登場する千年杉のモデルにもなっています。「不死鳥の大樹」ともよばれていますが、そうよばれるに至ったエピソードがあります。昭和55年の夏、落雷の直撃によりこの2本の大銀杏は瀕死の状態に陥りました。その翌々年、作東町の北村団平師が瀕死の大樹の周囲に十数本の銀杏の若木を植え、老樹の胴部に若木を接ぎ木するという大手術を施したところ、老樹がみごとに蘇生しました。幹から蛸の足が地面に伸びたような形で今でも数本の若木が老樹を支えています。自らの命を犠牲にして避雷針として身代わりになり、当山建造物を火災から守った大樹として大切に保護されています。

 SPring-8から大聖寺にアクセスするには、先ず国道179号線で佐用町西山橋まで行き、交差点で右折して県道365号線に入ります。そのまま西に進み上月町本郷で県道124号線に入ります。124号線を1.5kmほど北上したところにある分岐点で才金方面に左折します。後は道なりに進むだけです。



写真5 大聖寺の大銀杏


照鏡山八塔寺

 西播磨に隣接する岡山県吉永町にある古刹です。奈良時代728年聖武天皇の勅願により、当時人跡未踏の地であった当地に弓削道鏡師が創建しました。平安時代前期に道場が開設され、後期には三重塔10基、7堂72坊と繁栄しましたが、その後兵火にかかり衰微しました。鎌倉時代初期、源頼朝が梶原景時を奉行として復興させ、中期から室町時代にかけ隆盛期を迎えました。最盛期には8院64坊、72寺の規模を誇り、「西の高野山」と称されるほど隆盛を極めたといいます。しかし、戦国時代に度々の兵火に罹り衰退しました。その後、豊臣秀吉や備前岡山藩主池田氏らが再建に努めましたが、江戸時代末期から明治にかけて火災が相次いだため、次第に衰退して現在に至っています。本尊は行基菩薩の作と伝えられる十一面観音です。現在は天台宗の寺ですが、縁起によると江戸時代初期に改宗されたようです。

 八塔寺に隣接して恵日山高顕寺があります。定朝(じょうちょう)作と伝えられる不動明王を本尊とする高野山真言宗の寺です。毎年1月15日の大護摩供養では火渡りの荒行が行われるといいます。現在の高顕寺は江戸時代末期1834年に再建されたものですが、歴史的には八塔寺と深い関わりをもつようです。縁起には「文政11年(1828年)照鏡山八塔寺を別山とし、更に恵日山高顕寺と改めた」とありますが、この資料だけでは両者の関係が理解できません。旧八塔寺(=高顕寺)と新八塔寺(=現八塔寺)があるのでしょうか。

 八塔寺ふるさと村[写真6]を初めて訪れたとき、その美しさに魅了されました。四季折々それぞれの美しさを見せてくれますが、殊に梅や桜の咲く早春は格別です。二山の寺と十数軒の茅葺き屋根の農家が点在する小さな集落を高台から一望すると、自分が絵画の中にでも入ってしまったかのような錯覚、あるいは、過去の時代にタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥ります。仕事やストレスで疲れた人の安らぎの場として最適です。農家を改築した茅葺き屋根の国際交流ヴィラもあり、国際セミナーの会場として利用すると外国の人々に喜ばれるかもしれません。井伏鱒二の小説を映画化した今村昌平監督の「黒い雨」(1990年のカンヌ映画祭高等技術賞を始め数々の賞を受賞)のロケーションが行われた地としても知られています。

 SPring-8から八塔寺にアクセスする方法は二通りあります。一つは、上郡町から県道90号線を通って行く方法。県境手前の道が細いのが難点(現在拡張工事中ですのでやがて広くなるものと思われます)ですが、最も確実で早く着くルートです。県境の先2kmの三国で右折して新道に入ります(旧道である県道368号線を使うと遠回りになります)。二つ目は、上月町円光寺から県道368号線で行く方法。三国で右折して新道に入ります。



写真6 八塔寺ふるさと村


書寫山圓教寺(えんぎょうじ)

 平安時代中期966年性空上人(しょうくうしょうにん)によって書寫山(書写山)に開山された天台宗の名刹です[5, 6]。西国三十三霊場第二十七番札所でもあります。書写山は姫路市北部に位置する標高371mの山ですが、山頂付近一帯が広大な寺域になっていて、比叡山、大山と並び天台宗三大道場の一つに数えられており、「西の比叡山」とも称されています。

 麓から登っていく東坂・西坂などの参道がありますが、岩肌の露出した急峻な山道ですので、麓から歩いて登る場合はかなりの覚悟が要ります。普通はロープウェイを利用します。高低差211mをわずか4分足らずで上り切ります。ゴンドラから姫路一帯を展望できます。

 ロープウェイの山上駅を降りると目の前に公園が見えます。公園には「言葉のいのちは愛である」という文を刻んだ石の彫刻があります。これは小説家椎名麟三が書写山麓の生まれであることを顕彰するために昭和55年に建てられた文学碑であり、文字は岡本太郎の筆によるものです。椎名麟三は東坂参道登り口の女人堂近くの家で少年時代を過ごしています。少年の日の彼の思い出は暗く、故郷を捨てた罪の意識に彼の心は苛まれ続けました(姫路文学館の資料より)。昭和38年、彼はミュージカル「姫山物語」を執筆して故郷に帰ってきました。

 参道を進むと、「慈悲の鐘」と名付けられた鐘楼が見えてきます。1992年に建立されたものであり、だれでも自由に撞くことができます。その隣に、天台宗の開祖最澄の聖語「一隅を照らす これ即ち国宝なり」を刻んだ石碑と大きな菩提樹があります。参道をはさんで反対側に五十嵐播水(俳誌「九年母(くねんぼ)」を主宰した兵庫県出身の俳人)の句碑があります。


   曼珠沙華幼き記憶みな持てり

              播水


 「慈悲の鐘」の手前で参道は二手に分岐します。右が表参道、左が脇参道です。以前は脇参道には馬車が通っていましたが、平成12年3月に廃止されています。分岐点から先の表参道は「西国三十三観音巡礼道」となり、仁王門に至るまでの上り道の両側に、西国三十三霊場のそれぞれの本尊仏である観音像(青銅)が建っています。圓教寺の本尊である六臂如意輪観音像を筆頭に、第一番札所観音から第三十三番札所観音まで順に並んでいます。

 仁王門をくぐり木立の中の参道を進むと右手に寿量院が見えてきます。残念ながら寿量院は一般公開されていません。さらに進むと西坂参道(および脇参道)との合流点にきます。合流点の右側に十妙院がありますがここも一般公開されていません。参道は下り坂(権現坂)になり、下っていくと石橋(湯屋橋)があります。石橋を渡ると眼前に壮大な本堂摩尼殿が見えます。摩尼殿は京都の清水寺と同じ舞台造り(掛造り)であり、削った岩の上に建てられています。舞台を見上げながらしばしその壮大さに見とれてしまいます。

摩尼殿は巡礼者や参拝者でいつも混み合っています。本尊の如意輪観音像(木像)が安置されています。この本尊は秘仏であり、1月18日の修正会(しゅしょうえ、鬼追い会式)のときのみ拝観できます。舞台に立つともみじ、銀杏、杉などの木々の梢が眼前に迫り、舞台の高さを実感します。

 摩尼殿の前の参道を境内奥へと進みます。うっそうと茂る木立の中の道の右側に初井しづ枝の歌碑と高浜年尾の句碑が並んで建っています。


   渓流のたぎちに低く迫り咲く赤き椿は水に散るべし[7]

                         しづ枝


初井しづ枝は姫路市出身の女流歌人です。北原白秋門下であり、コスモス短歌会創立同人です。歌集「冬至梅」(とうじばい)で読売文学賞を受賞したほか、兵庫県文化賞、姫路市文化功労賞を受賞しています。播州屈指の素封家初井家に嫁ぎ、24才で作歌をはじめました。彼女の作歌活動は、婚家の厚い因習の壁に対抗するためであったといいます(姫路文学館の資料より)。上の歌は彼女の第四歌集「冬至梅」の「時」と題する3首の中の1首です。


   歌塚の四季を訪はんと思ふ秋

              年尾


 高浜年尾は高浜虚子の長男であり、虚子の「ホトトギス」を継承した俳人です。上の句は西国観音札所探勝吟行の折りの作であり、奥の院の近くに建つ和泉式部の歌塚を詠んだものです。

 道をはさんで反対側に瑞光院があります。門前に3本のもみじの木が土塀に沿って並んでいます。土塀とマッチして紅葉が一際映えるため、カメラ撮影の好適地として知られているそうです。

 木立の道をさらに進むと木立が切れて突然視界が開け、壮大な三つの堂が目に入ります。常行堂(じょうぎょうどう)、二階造りの食堂(じきどう)、二重屋根の大講堂の3堂がコの字型に配列され、中央は広場になっています。広場に立つと荘厳な雰囲気に包まれます。常行堂は道場ですが、舞のための舞殿を備えています。食堂は大法会のときの食堂として使われるだけでなく、道場や合宿所として使用されています。食堂は二階が宝物館として開放され、仏像数体と宝物が展示されています。弁慶が使ったとされる机も展示されています。大講堂は学問と修行のための堂であり、釈迦三尊像が安置されています。

 食堂の脇を抜けて境内の最奥、奥の院へと向かいます。開山堂の手前右側に護法堂(乙天社と若天社の2社殿)、左側に護法堂拝殿が建っています。護法堂拝殿は「弁慶の学問所」ともよばれ、弁慶が若かりしころ修行したという言い伝えが残っています。開山堂は圓教寺を開山した性空上人を祀る堂であり、性空上人像が安置されています。開山堂軒下の四隅に、懸命に背中で屋根を支えている力士の彫刻があります。その姿や形相に迫力があり、左甚五郎の作と伝えられています。四力士のうち一隅の力士は屋根の重さに耐えかねて逃げ出したという伝説があるといいます。

 開山堂横の山の斜面に「和泉式部歌塚」とよばれる宝篋印塔が建っています[写真7]。和泉式部は歌集や日記で知られる平安時代の女流歌人です。宮廷内の確執に悩んでいた一条天皇の中宮彰子は、和泉式部らを伴って、性空上人に教えを受けるためはるばる圓教寺を訪ねて来ました。しかしながら、権勢を好まない上人は居留守を使って中宮一行に会おうとしませんでした。中宮はいたく失望し泣く泣く帰ろうとしましたが、お供の和泉式部は歌を作り上人に届けました。


   冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき

          はるかに照らせ山の端の月


 これを読んだ上人は下山し始めていた中宮一行を呼び戻しました。この歌を読んだときの性空上人の驚嘆はいかばかりであったのでしょうか。「冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき」は妙法蓮華経(法華経)巻第三化城喩品(けじょうゆぼん)第七の「従冥入於冥永不聞仏名(冥きより冥きに入り永く仏の名を聞かず)」から引喩しています。和泉式部の教養の深さと才気には驚くばかりです。「冥き道」は煩悩多き人生、「月」は性空上人を暗喩していると解釈されます。和泉式部が夫や子を捨てて恋人と恋仲にあった頃か、あるいは、その恋人と死別(1002年)して新たな恋人と恋愛中(1003年~)にあった頃のできごとと推測されます[8]ので、親からは勘当され世間からは多情な女というレッテルを貼られた彼女の心は複雑であったに違いありません。この歌に対して上人は次の歌を返し、一行に仏の道を説いたといいます。


   日は入りて月まだ出ぬたそがれに掲げて照らす法の灯


 性空上人は1000年に書写山の北4kmの地に弥勒寺(夢前町)を建立して隠棲し、1007年に入滅しました。奇しくも同年、和泉式部の二番目の恋人が亡くなっています。和泉式部はその後再婚(1009年)し、丹後守に就任した夫とともに任地に下りました。

 和泉式部歌塚を眺めていたとき、黒揚羽がゆっくりその前を通って行きました。


   黒揚羽止まらず行けり古歌の塚


 筆者の拙い句ですが、本年10月に行われた第19回相生市俳句祭において、高田由彦先生選による特選となりました。

なお、初井しづ枝に関する資料を調べていたとき、彼女の歌集「夏木立」に和泉式部歌塚を詠んだ短歌が三首あり、しかも、その中に黒揚羽が登場する一首があることを偶然知りました。


   終わりゆくうつぎの花の乾く紅花に

        翅しづめつつ黒揚羽ゐる



写真7 圓教寺奥の院和泉式部歌塚


参考資料

[1]万勝院パンフレット

[2]「新西国霊場法話巡礼」(朱鷺書房)

[3]斑鳩寺パンフレット

[4]大聖寺パンフレット

[5]「書写山遊歩ガイド」(神戸新聞総合出版センター)

[6]圓教寺パンフレット

[7]歌碑では「…たきちにひくゝ…」となっていましたが、本稿では歌集「冬至梅」(石川書房)の記載を採りました。

[8]「和泉式部」(山中裕、吉川弘文館)


尾崎 隆吉 OZAKI Takayoshi

(財)高輝度光科学研究センター 広報部

〒679-5198 兵庫県佐用郡三日月町光都1-1-1

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