Volume 01, No.3 Pages 38 - 40
5. 談話室/OPEN HOUSE
レーザー電子光によるクォーク核物理の研究
SPring-8放射光SRリングからの高輝度光が物性物理、生物物理その他の物質科学研究に幅広く使用できる時期が到来しつつある。1997年には、加速器計画が完成し、念願の8 GeV電子ビームがSRリング中を周回するようになる。21世紀の物質、生命科学発展の一翼をSPring-8が担うとの期待が高まっている。我々、原子核実験物理屋は、自分で実験装置を設計・製作し、実験を行って来ているので、SPring-8大型放射光施設建設に関わった人々の御苦労がある程度理解できるが、超大型施設であるSPring-8では、独特の苦心があったに違いない。完成の暁には心から「おめでとう」を言いたい。
我々、原子核物理屋は、SPring-8での8 GeV電子ビームの優れた特性と現在のレーザー技術の発展を組合わせた、最高技術での核物理研究が行われると期待し、SPring-8での実験準備を進めている。原子核の研究は、放射光利用の多くのユーザーからは全くの畑違いの分野であり、何をいまさら、と言う先入観で目次を読まれた人もいらっしゃると思い、原子核物理屋がSPring-8で考えている研究内容の概要を極めて大雑把に解説したい。
SPring-8での我々の研究目的は、核子・原子核中のクォークの振る舞いを探ることである。この手段として、レーザー電子光と8 GeV電子の逆コンプトン散乱による高エネルギー・偏極光子ビームを発生させ、この光子ビーム(レプトン)によるクォーク核物理実験を行うことが研究内容の骨子である。研究内容を簡単に言いあらわすために研究計画を「レーザー電子光によるクォーク核物理の研究」として推進グループを作り実験施設建設計画具体化に向けた作業を行っている。
1.逆コンプトン散乱とは?
SPring-8に蓄積された高エネルギー電子ビーム(8 GeV)に、レーザー光を入射し、電子と衝突させるとコンプトン散乱が起こる[1,2][1] R. H. Milburn, Phys. Rev. Lett. 10 (1963) 75.
[2] F. R. Arutyunian and V. A. Tumanian, Phys. Lett. 4 (1963) 176.。散乱の全断面積はレーザー光の振動数に無関係なThomson散乱の公式によって与えられ、
………(1)
である(reは古典電子半径2.8 × 10-13 cm)。高エネルギー電子と大強度レーザー衝突の場合、レーザー電子は高エネルギー電子(Ee)からエネルギーを受け取り、高エネルギーガンマ線に変換される。
入射レーザー光子のエネルギーω0と正面衝突で超前方の散乱方向に発生するレーザー電子光Eγとの関係は
………(2)
となる。
逆コンプトン散乱によって良質の高エネルギー光子を得るには、
1)電子のエネルギーが高い(E2eに比例)
2)レーザーのエネルギーが高い
又、それに加えて、重要なことは、3)電子ビームのエミッタンスが良いことである。ローレンツ収縮効果のため、高エネルギー電子によるレーザー電子光は電子の進行方向に集中する。
上記の3つの実験条件はSPring-8の8 GeV電子ビームを用いることによって満たされる。世界にはSPring-8と同規模のSR施設ESRF、APSが稼働を開始しているが、どの条件を取っても、SPring-8が最適である。
2.レーザー技術の進歩
紫外線レーザー発生は、高エネルギー・レーザー電子光を得るための必須要件である。近年の紫外線レーザーの開発は、大集積度半導体超LSI製作に必要な基礎リソグラフ技術開発の一環として進められている。紫外線レーザーにとっての重要な技術発展は、1)良質な非線形光学結晶の開発、2)吸収率10-6にせまる光学ミラー技術であろう。これらの技術発展によって、我々、核物理実験に必要な短波長レーザーが入手可能となっている。
特に、非線形光学結晶の開発はわが国でも極めて活発な研究アクティビティーがあり、大阪大学などでもセシウム・リチウム・ホウ素酸化物(CLBO)、バリウム・ホウ素酸化物(BBO)などの波長変換結晶での短波長レーザーの研究が精力的に行われている。この技術は、わが国、日本が最高の技術を誇っている分野である。半導体の超微細加工や材料の表面加工などの用途に使われる目的で開発されているが、この最先端技術が、我々の目的とする、高エネルギーガンマ線発生に直接応用できる。「レーザー電子光クォーク核物理研究計画」では、阪大のレーザー研究グループがこの分野の開発を支援して頂けることになった。西播磨で光に関する最高技術が、原子核研究の最先端研究として生かされるわけである。
3.高エネルギーガンマ線を用いた物理
SPring-8の8 GeV電子ビームを用いた、レーザー光とのコンプトン散乱により、1〜3.5 GeV領域で100%近く偏極したフォトンビームが得られる。この施設でのクォーク核物理研究は世界でもユニークであり、計画中の現時点でも世界の研究者の関心をひきつけつつある。1〜3.5 GeV領域は核子の励起準位が離散的に現れるエネルギー領域であり、電磁的プローブを用いた研究はクォークの関わる物理の研究に決定的な威力を発揮すると期待出来るからである。
SPring-8での実験では、100%偏極した高エネルギーガンマ線と核子内のクォークとの衝突現象、及びクォークのノックアウト現象が観測されると期待される。偏極現象測定は、クォークの関与する物理を解明するための有力な武器となる。研究計画として、以下のようないろいろな課題が検討されている。
1)核子中のs成分の検出
2)Baryonの変形とバリオン・スペクトクル(クォーク波動関数)の研究
3)GDH(Gerasimov, Drell-Hearn) 和則の検証
4)重陽子の光分解によるクォーク模型のテスト
5)Glue ball(DGL理論:Dual Ginzburg-Landau 理論)の探索
6)核媒質における中間子質量、及び振る舞いの研究
7)偏極フォトンによるハイパー原子核の研究
これらの実験課題は、原子核の極微の世界を探る最も基礎的テーマである。「核子のスピンのなぞ」は、CERNのEMCグループが1988年に発表した、スピン偏極ミューオンと偏極陽子による深部非弾性散乱実験の結果から始まった核子中のクォークの存在についての疑問である。陽子に含まれないはずのストレンジ・クォークが、陽子スピンのかなりな部分を担い、陽子中にはu-クォークとd-クォークばかりでなくs-クォーク成分が10%〜20%近くあるとの結論であった。その後のSMCグループ、スタンフォードグループによる実験で、この結論は確認されている。
SPring-8での偏極光子での偏極現象測定の実験は、陽子などのハドロンがどう構成されているかの素朴な疑問に答を出せる重要な実験の一つである。GHD和則の検証実験は直接的に陽子スピンの性質と結びつく実験であり、世界のレプトン加速器で競って実験が企画されている。また、偏極光子によるφ中間子創生と、その崩壊の偏極現象測定は陽子中の成分検出に極めて感度の高い実験になるであろうと理論的に予想されている。これらのテーマでの実験結果は世界の科学者の注目を浴びることになろう。
クォーク核物理の理論の最近の発展は素晴しいものがある。QCD有効理論を用い、バリオン(核子の励起状態)が議論されているようになってきている。2 GeV以下にグルーボールが存在するらしいことも最近のLATTICE QCDの計算結果で予言されている。
原子核物理では、原子核の励起準位が1940年代に続々と発見され、陽子・中性子の集合体として原子核準位を理解し、かつ、核分光学的手法で、より精密な原子核準位の構築を行ってきた。
クォーク・グルーオンの集合体として核子をとらえ、その励起モードを理解し、集団的運動を予測する理論も現れつつある。過去、原子核の分光学的研究で原子核の励起準位が実験的に整理整頓され、原子核物理が大いに発展した。
バリオン分光学が、さらに発展した延長線上で、我々は核子(クォーク)の運動の基本的理解に到着することが出来るだろうか?原子核の運動をクォークを基礎とした理論から出発し、その接点の上で理解出来るのだろうか?
これらの疑問を解決する糸口を見つける新実験がSPring-8で行える。また、クォークの生成・消滅に関わるダイナミックス(動力学)も学べるであろう。
4.日本でのクォーク核物理研究
逆コンプトン散乱による高エネルギー光子を核物理研究に用いようというアイデアは1980年代に欧州原子核研究所(CERN)で22〜91 GeVの電子-陽電子のコライダーの建設計画(LEP)が議論された当時から議論されている[3][3] R. Chrien, A. Hofmann and A. Molinari, Physics Reports 64 (1980) 249-389.。1991年には、イタリア・フランスのグループがフランス・グルノーブルに完成するESRF(最大電子エネルギー6 GeV)での高エネルギーガンマ線による実験を提案し、現時点で実験が稼働状態になった。残念ながら、フランスで得られるガンマ線のエネルギーは2 GeV止りであり、SPring-8での3.5 GeVには、およばない。
我が国、日本の過去のフォトン・レプトンビームによる物理研究の水準は極めて高く、原子核研究所の電子シンクロトロンは放射光リングの生みの親となり、放射光分野とガンマ線による原子核・素粒子研究をリードした。また、東北大学核物理学研究施設の電子線ライナックによって原子核の「巨大共鳴の研究」など、原子核物理研究の重要な一分野において一時代を築いた研究もあった。残念ながら、原子核研究の主流がハドロンビームによるものとなったために、我が国でのフォトン・レプトンによる素粒子・原子核の研究環境は遅れてしまった。一方、素粒子物理の研究は、ますます高エネルギー大型化の方向に傾き、すでに、クォークの集合体としての核子及び核子の励起状態を研究する方向には無い。
「レーザー電子光によるクォーク核物理」の研究は、RCNP(大阪大学核物理研究センター)とJASRI(高輝度光科学研究センター)が、文部省、科学技術庁という省庁の枠を越え、我が国、日本の最高技術水準を用い、偏光したフォトンによる「クォーク核物理」研究を進めようという計画である。
この計画での実験は、レーザー光という偏光している光を用い、偏光している高エネルギー光子を創り出し、偏極現象測定による実験結果を出そうというのがユニークな特徴であり、SPring-8リングの性能を最大限に引き出せる国際水準を抜くフォトンによる極徴の世界(ハドロン内部)の研究が可能となる。
この、魅力あふれた研究を実現しようとの意気込みで、現在、全国の40名以上の研究者との協力とSPring-8側研究者の協力で「施設設置実行計画書」を作成し、建設計画実現に向けた精力的検討と基礎研究を行っている。
本計画実現には、当然ながら、研究所間の協力、物性物理、生物物理その他の研究者と我々原子核物理研究者間の理解と協力が欠かせない。我々、原子核実験屋の実験計画が実現に向かって動き始めている事は、関係各位の親切な御援助の賜である。
科学の発展とは本来、狭い学問分野に閉じこもらず既成概念を突き破り、研究分野を越えて伸びて行く性質を持っている。我々のSPring-8での広い意味の放射光を用いた原子核物理実験が、研究分野を越え、省庁間の研究協力を生み、国際協力研究を生み育て、良い研究協力のモデルとして発展していくことを願っている。さらに、最後にあえて書かせていただくならば、原子核物理屋の持つ実験技術と成果が他分野の研究へと発展的に応用され、研究の花を咲かせ、優れた研究者が続々とSPring-8を舞台として育っていく夢が現実になる日が楽しみである。
参考文献
[1] R. H. Milburn, Phys. Rev. Lett. 10 (1963) 75.
[2] F. R. Arutyunian and V. A. Tumanian, Phys. Lett. 4 (1963) 176.
[3] R. Chrien, A. Hofmann and A. Molinari, Physics Reports 64 (1980) 249-389.
藤原 守 FUJIWARA Mamoru
昭和22年5月15日生
大阪大学核物理研究センター
〒567 茨木市美穂が丘10-1
TEL: 06-879-8914
FAX: 06-879-8899
E-mail: mamoru@rcnpax.rcnp.osakau.ac.jp
略歴:昭和45年大阪大学理学部物理学科卒、昭和47年大阪大学理学部物理学科修士課程修了、同博士課程中退、同年より大阪大学核物理研究センター助手、平成7年同助教授、平成7年オランダ国立原子核研究所特別研究員。日本物理学会。核物理研究センター・実験グループ代表。最近の研究:原子核のスピン・アイソスピン共鳴の研究、原子核を用いたニュートリノ物理の研究、超高分解能磁気スペクトロメーターの設計・建設、測定器の開発研究。今後の抱負:世界のハリマで国際水準を抜くクォーク核物理を行う。秀でた研究を行う事。趣味:囲碁、絵画の練習・鑑賞、音楽、読書、ジョークの研究。特技:弓道2段、フォークリフト運転、放射線主任一種免状。