SPring-8 / SACLA Research Report

ISSN 2187-6886

Volume4 No.2

SPring-8 Section A: Scientific Research Report

赤外放射光の円偏光特性を利用した振動円二色性測定
Vibrational Circular Dichroism Spectroscopy by Infrared Synchrotron Radiation Source

DOI:10.18957/rr.4.2.185
2012B1155, 2013A1439, 2013B1444 / BL43IR

池本 夕佳a, 佐藤 久子b, 森脇 太郎a

Yuka Ikemotoa, Hisako Satob, Taro Moriwakia


a(公財)高輝度光科学研究センター, b愛媛大学

aJASRI, bEhime University


Abstract

 赤外放射光の円偏光性を利用した振動円二色性測定の検討をBL43IRで行った。愛媛大学の佐藤らにより大きな二色性信号が観測されている金属錯体Co(acac)3 (acac = acetylacetonato)について、放射光を光源とした振動円二色性スペクトルを測定した。BL43IRで得られる左右円偏光スペクトルの強度とスペクトル形状の違いを補正する解析を施せば、既に報告されている二色性スペクトルの形状が再現できることがわかった。しかし、報告されている二色性信号の大きさは、本研究の測定結果の方が大きく、試料の条件を変えるなどして更に検討を行う必要がある。


キーワード: 振動円二色性、赤外放射光


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背景と研究目的:

 赤外放射光は、赤外分光に一般的に利用されるグローバーランプなどの熱輻射光源と同様の広帯域白色光源である一方、輝度が高い特徴を持っている。BL43IRでは高輝度特性を利用した顕微分光を行っている。赤外放射光は、さらに円偏光特性を持っていることも重要である。BL43IRのパラメータを用いて計算した結果、600 cm-1より高い波数領域で8割以上の円偏光度であった[1]。本課題では、放射光の特徴を活かした測定手法を推し進めるため、円偏光特性を利用した振動円二色性測定の検討を行った。中赤外領域の振動円二色性測定を行う装置は、日本分光などからも市販されており、熱輻射光源を搭載している。放射光を利用して円二色性を測定するメリットととしては、市販の装置がカバーしない1000 cm-1以下にも帯域を拡張できる点と、高輝度特性と組み合わせて微小試料の振動円二色性測定が可能となる点にある。しかし、1000 cm-1以下の放射光は強度が低下するとともに検出器の感度も落ちるためノイズが高まること、微小試料測定のために顕微鏡を利用するとミラー枚数が増大し偏向特性を乱す可能性があることなど、評価要素が増加する。本研究では、すでに市販の装置で論文発表されている中赤外領域に的を絞り実験を行った。

 互いに鏡像関係にある一対の立体異性体を持つキラル分子は、医薬品等の機能性材料として数多く利用されている。キラル分子の性質を調べる重要な手法の一つに振動円二色性分光法があるが、近年、赤外領域の振動円二色性分光法が盛んに行われるようになってきた[2]。分子振動を利用した二色性スペクトルの測定ではピーク構造が多い、基底状態を扱う、などの利点があり、特に赤外領域にしかピーク構造を持たない糖やタンパク、金属錯体などの分子の立体構造解析に威力を発揮する。また、X線構造解析と異なり、結晶化の必要がないことも利点の一つである。共同研究者である愛媛大学の佐藤らは、市販の装置を利用して金属錯体に関する赤外振動円二色性測定を系統的に行い、分子の立体構造のほか、分子の振動準位に対する中心金属の電子スピンの影響などについても発表してきた[3,4]。本課題では、佐藤らにより大きな二色性信号が観測されている金属錯体Co(acac)3 (acac = acetylacetonato)を利用し[3]、赤外放射光を光源とした円二色性分光を検討した。


実験結果および考察:

 図1に、Δ体のM(III)(acac)3(M(III) = Co, Rh, Ir, Cr or Ru)の構造を示す[3]。なお、Δ体は右巻き螺旋構造を持つ分子であり、左巻き螺旋構造を持つ分子はΛ体と表記する。

 測定は、BL43IRのFTIR分光器IFS120HR(ブルカー社製)の試料室において室温で行った。試料は、液体セルに封入した状態で、試料室内の焦点位置に設置した。液体セルの試料厚みは、50 µmであった。錯体試料は重水素化クロロホルム溶液に溶かし、吸光度が1程度になるように濃度を調整した。偏向電磁石から放射される放射光は、電子軌道面の上下で円偏光の回転方向が異なる。BL43IRの垂直取り込み角は12.6 mradで、最上流のミラーには、X線による熱負荷を抑えるため、幅3 mm(垂直取り込み角1.13 mradに相当)の横長のスリットが施してある。測定の際には、測定試料のおよそ10 cm上流に矩形のスリットを設置し、電子軌道から上・下半分となる光をそれぞれ切り出して測定した。上半分の光取り込み角は、電子軌道から垂直上向きに0.56 〜 6.3 mrad、下半分の光取り込み角は、垂直下向きに0.56 〜 6.3 mradに相当する。スペクトルの波数分解能は2 cm-1、40回の積算回数で、スリットを40回往復させてデータを取得し、各偏光方向のデータを平均して解析を行った。



図1 Δ体のM(III)(acac)3(M(III) = Co, Rh, Ir, Cr or Ru)の構造[3]


 図2(a)にCo(acac)3 (acac = acetylacetonato)のΔ体とΛ体について、左右円偏光の吸収スペクトルを示す。縦軸は吸光度で、Co(acac)3を溶媒(重水素化クロロホルム)に溶かした試料のスペクトルを溶媒のみのスペクトルで割り算し、符号を反転して対数をとり表示してある。赤線はΔ体の左円偏光(AΔL)、青線はΔ体の右円偏光(AΔR)、緑線はΛ体の左円偏光(AΛL)、黒線はΛ体の右円偏光(AΛR)の結果である。また、図2(b)はAΔL- AΔR(青)、AΛL—AΛR(黒)の結果である。本来であれば、AΔL- AΔR、AΛL—AΛRが振動円二色性スペクトルであり、キラリティが反転した試料を測定しているため、符号が反転するはずである。しかし、図2(b)は、差分の値が非常に大きく、また、符号は反転しないことがわかる。このようになる理由としては、スリットで切り出した軌道面から上に放射されたスペクトルと、下に放射されたスペクトルの強度・スペクトル形状・円偏光度が異なっていることが考えられる。



図2 (a) Co(acac)3 (acac = acetylacetonato)の吸収スペクトル。赤線はΔ体の左円偏光(AΔL)、青線はΔ体の右円偏光(AΔR)、緑線はΛ体の左円偏光(AΛL)、黒線はΛ体の右円偏光(AΛR)の結果である。(b) Δ体、Λ体それぞれの吸収スペクトルにおいて、左円偏光のスペクトルから右円偏光のスペクトルを差し引いた差分スペクトル。


 BL43IRにおいて、赤外光は、光源から10枚以上のミラーを経由して実験ステーションに到達しており、可視領域における光プロファイルの変形も確認されていることから、理想的な状態で検出器には届いておらず、強度ムラやスペクトル変形、偏光特性の低下などが起こっていると考えられる。これらの測定上の問題を補正するため、本来であれば同じスペクトルとなるはずのAΔLとAΛR、AΔRとAΛLについて、相乗平均((AΔL * AΛR)1/2、(AΔR * AΛL)1/2)をとり差分スペクトルを計算した結果を図3(a)に示す。詳細な検討を行うにはノイズレベルが高いが、1580 cm-1、1520 cm-1に正のピーク、1380 cm-1に負のピークが現れていることがわかる。図3(b)には、実験室の赤外振動円二色性測定装置で行った結果[3]からのFigure 1に掲載されている振動円二色性スペ クトルを示す。ピークの波数、符号は一致していると考えられる。しかし、差分のピーク強度は異なっている。図3(a)は本実験における結果で、縦軸は差分吸光度である。一方、図3(b)は参考文献[3]のデータであり、縦軸は、1 cm-1当たり、Co(acac)3分子1 M当たりの吸収の変化である。従って、図3(a)と(b)の縦軸強度はこのままでは比較できない。佐藤らの測定では、吸光度Aが0.8の時の差分吸光度dAはおよそ4E-05、従って、dA/A〜5E-05であった。図2、図3から同様の計算をすると、dA/A〜1E-03となり、およそ20倍大きい。図3(a)のノイズレベルがまだ十分低くないため、dA/Aの見積もりに誤差が大きい可能性はある。ノイズはスペクトルの積算時間の不足や検出器の飽和が要因になっていることが考えられるため、積算時間を2倍程度変えたり、光学フィルターの使用で検出器の飽和を抑えたりする測定を行ったが、この範囲では、二色性信号強度が異なる理由の特定には至っていない。今後、左右円偏光切り替えを高速にする、検出器を更に低温に冷やして飽和を抑える、などの対策により、差分スペクトルのノイズレベルを格段に下げて詳細な検討を行う必要がある。また、光源から試料に至る光路上にある多数のミラーが、スリットで切り出した左右円偏光の強度・スペクトル形状の違いをもたらし、解析を困難にしていることが考えられる。光を切り出す矩形スリットの設置位置は、本来、光源点と最上流ミラーの間であることが望ましいが、BL43IRでは、第1ミラー(最上流ミラー)は光源からおよそ2.7 mの超高真空下に置かれており、矩形スリットを設置することはできない。また、その後の光学系下流も、スペクトルに影響を及ぼす大気中の水分・二酸化炭素を除去するために真空パスが組まれているので、本課題では、大気中に光路が出ている試料近くにスリットを設置した。低真空の光学パスは変更が可能なため、低真空パスの最上流にあたる光源からおよそ11 mの地点(ミラーを4枚経由して、光源と試料のほぼ中間地点)にスリットを設置することを今後検討する。このほか、Co(acac)3以外の物質での測定や、固体粉末試料での測定なども必要である。



図3 (a) 相乗平均((AΔL * AΛR)1/2、(AΔR * AΛL)1/2)の差分スペクトル。(b) 参考文献[3]のFigure 1よりCo(acac)3 (acac = acetylacetonato)の振動円二色性スペクトル


参考文献:

[1] T. Moriwaki, Y. Ikemoto, SPring-8/SACLA Research Report 3, 258-264 (2014).

[2] 佐藤久子, 化学工業, 61, 871-876 (2010).

[3] H. Sato, T. Taniguchi, A. Nakahashi, K. Monde, A. Yamagishi, Iorganic Chemistry 46, 6755-6766 (2007).

[4] H. Sato, F. Sato, M. Taniguchi, A. Yamagishi, Dalton Transactions 41, 1709-1712 (2012).



ⒸJASRI


(Received: March 27, 2016; Early edition: June 15, 2016; Accepted: June 24, 2016; Published: July 25, 2016)