Volume8 No.2
SPring-8 Section B: Industrial Application Report
軟X線走査型顕微分光マッピング法を用いたブリーチ毛髪内部における硫黄元素分布の測定
Evaluation of Sulfur Distribution in Bleached Human Hair using Soft X-ray Microspectroscopy
(株)ミルボン
Milbon Co., Ltd.
- Abstract
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本研究では、BL27SU に構築されている軟X線走査型顕微分光測定系を用いて、黒髪に対するジスルフィド結合やその酸化構造(システイン酸)の測定プロトコルを確立し、マッピング測定によって毛髪内分布を評価することを目指した。その結果、毛髪内におけるジスルフィド結合およびシステイン酸分布を可視化することができた。また、ブリーチ処理に用いられる過酸化水素によって、ジスルフィド結合が酸化されてシステイン酸に変換されるという、よく知られた知見が本実験結果からも再現され、軟X線マッピングによる毛髪内硫黄分布の測定が可能であることが示された。
Keywords:毛髪、ブリーチ処理、ジスルフィド結合、システイン酸、軟X線走査型顕微分光マッピング法
背景と研究目的:
日本における化粧品産業の市場規模は約2兆円に達し、その中で約5分の1を占める頭髪化粧品は、化粧品産業の発展を下支えする重要な産業分野である。頭髪化粧品においては、毛髪のダメージ現象に対する改善や予防の市場ニーズが大部分を占めており、高い顧客満足に結びつく製品開発に向けては、未だ充分に分かっていない毛髪構造やダメージ発生機構などについてのより詳細な理解が必要不可欠である。特に、過酸化水素を用いて毛髪の脱色(ブリーチ)と染色を同時に行うヘアカラーは、広く行われる美容施術であると同時に、毛髪ダメージの主たる要因と考えられていることから、ブリーチ処理によって生ずる毛髪ダメージのさらなる解明が求められている。
毛髪や羊毛に代表されるケラチン繊維は、約 85% はケラチンタンパク質から構成され、シスチン残基に由来して存在する多量のジスルフィド結合を持つ、複雑で巨大な網目高分子といえる。繊維内部で形づくられる階層構造に従ってジスルフィド結合は不均一な濃度分布で存在し[1]、コルテックスに存在するジスルフィド結合の分布が繊維の力学特性と関連づけて議論されてきた [2–4]。また、毛髪に対して過酸化水素を用いたブリーチ処理を行うと、毛髪内のジスルフィド結合が酸化的に開裂しシステイン酸を生成することが知られている。このようなジスルフィド結合の開裂とともに力学物性が低下することが報告されており[5]、システイン酸の生成量が毛髪繊維の損傷度合いの指標となることが提案されている[6,7]。従って、毛髪ダメージをより詳細に理解するために、複雑な階層構造をもつ毛髪内におけるジスルフィド結合やシステイン酸の分布をより詳細に把握することは大変有用である。
毛髪内における硫黄元素状態の分光学的な解析手法として赤外分光法やレーザーラマン分光法が用いられる[8–10]。また、これらを顕微分光法として用いることで、直径 100 µm 程度の毛髪においてもシステイン酸やジスルフィド結合の分布状態を解析することができる。しかし、赤外分光法ではジスルフィド結合のような対称性の良い振動モードを検出することは困難である。一方、レーザーラマンを用いた顕微分光法は毛髪内におけるジスルフィド結合分布の解析に適しており、システイン酸の検出も一応可能ではある。しかし、黒髪の場合にはメラニンに基づく蛍光によって検出が妨害されるため、測定可能な毛髪は白髪に限定される。毛髪内のメラニン顆粒に保持される金属の影響により、メラニンを有する黒髪と有さない白髪では過酸化水素による酸化反応挙動が異なることが指摘されている[11]。従って、毛髪ダメージの解析において白髪と黒髪を同一に議論することは出来ない上に、黒髪を対象とした硫黄元素状態の分光学的解析手法は相当に限られている。
このような中、最近では、X線吸収微細構造(XAFS)測定による黒髪内部における硫黄元素の化学構造状態の解析が報告されており、軟X線を用いた顕微分光法により毛髪ダメージに伴う内部のジスルフィド結合やシステイン酸の分布状態変化が示されている[12]。著者らは、赤外分光法を用いてブリーチ処理における毛髪内酸化反応の速度論的解析を行い、コルテックス内におけるシステイン酸の生成挙動が拡散律速に従うことを報告してきた[10]。従って、軟X線分光法を用いることで、黒髪に対するシステイン酸とジスルフィド結合の速度論的同時解析やこれらの毛髪内分布解析が可能と考えられ、さらなる毛髪ダメージ発生機構の解明が期待される。しかし、SPring-8 における毛髪内硫黄元素の XAFS 分析に関しての報告が見られなかったことから、本研究では、BL27SU に構築されている走査型軟X線顕微測定系を用いて黒髪の硫黄元素分析に対する測定プロトコルを確立し、黒髪やブリーチ毛髪に対するジスルフィド結合やシステイン酸の毛髪内分布を評価することを目指した。なお、本研究課題は、ジスルフィド結合の開裂と再結合の化学反応を伴うパーマネント・ウェーブ処理毛髪や、毛髪内のジスルフィド結合分布が変化した高齢女性毛髪も測定対象として申請したものであるが、課題審査の結果として、BL27SU における毛髪測定のプロトコルや測定可能性を評価することを目的として、申請時より縮小されたビームタイム配分で課題採択されたため、測定対象を未処理黒髪とブリーチ処理毛髪に絞って実施したものである。
実験:
測定検体は、インフォームドコンセントを得た20代日本人女性ボランティアの直毛で、過去にヘアカラー、パーマなどの化学的処理を受けていない毛髪を用いた。ブリーチ処理毛髪は、毛髪を pH 10.4 に調整した 3 % 過酸化水素に120分浸漬させた後、水洗および乾燥させて調製した。
XAFS 測定は、SPring-8 のビームライン BL27SU にて行った。毛髪横断切片は、ミクロトームを用いて毛髪を厚さ 50 µm に切断することで調製した。アルミニウム製のホルダーに張り付けた導電性両面テープに毛髪切片を固定し、BL27SU においてビーム径 10 µm の軟X線を用いて毛髪断面に対する XAFS 測定を行った。この測定のためにシリコンドリフト検出器(SDD)を用いた蛍光X線検出法が用いられた。測定は、入射X線のエネルギーを 2465–2520 eV まで変えながら、SDD にて S-K 吸収端の XAFS スペクトルを取得した。得られたスペクトルは、2520 eV における強度が1になるように規格化した。このスペクトルから、毛髪内ジスルフィド結合中の S は 2473 eV 付近、システイン酸は 2480.5 eV 付近に現われることを確認した[13]。その後、励起エネルギーをジスルフィド結合やシステイン酸の励起エネルギーに固定し、毛髪断面全域において 5 μm ステップによる蛍光X線マッピング測定を行うことで、ジスルフィド結合やシステイン酸の分布を選択的に得た。
結果および考察:
未処理毛髪及びブリーチ処理毛髪のコルテックス部位を任意に選び、照射エネルギーを変えながら測定して得られた毛髪コルテックス部の XAFS スペクトルを図1に示す。ここで、2473 eV 付近にみられるピークはコルテックス内ジスルフィド結合に由来する[12,13]。また、ブリーチ処理毛髪のスペクトルには 2480.5 eV ピークの増大が見られる。このエネルギーはシステイン酸の SO3− に由来することから[12,13]、コルテックス内におけるシステイン酸の生成を意味する。図2に、照射エネルギーをジスルフィド結合やシステイン酸の励起エネルギーである 2473 eV および 2480.5 eV に固定して毛髪薄切片内を走査して得られた、未処理毛髪およびブリーチ処理毛髪の蛍光X線マッピング図を示す。ジスルフィド結合の分布に着目すると、未処理毛髪ではジスルフィド結合に基づく蛍光が毛髪断面全体にわたって強いシグナルをもって得られた。毛髪中心部ではシグナルが低くなっているが、これはジスルフィド結合量の少ないメデュラの存在によるものである[1]。また、ブリーチ毛髪は未処理毛髪に比べてシグナル強度は毛髪断面全体にわたってやや弱くなっていた。これに対してシステイン酸の分布に着目すると、未処理毛髪に比べてブリーチ処理毛髪の方が毛髪断面全体に渡って強いシグナルとして得られた。この変化も図1の議論と同様に、ブリーチ処理において用いられる過酸化水素よってジスルフィド結合が酸化的に開裂してシステイン酸が生成するという、よく知られた機構に一致する結果と思われる[1]。以上の結果から、本ビームラインの測定系によって毛髪内硫黄化合物をターゲットとした XAFS スペクトルの測定や、マイクロビームを毛髪試料に走査して得られる2次元マッピング測定が可能であり、これらのデータから硫黄化合物の毛髪内分布状態が評価できることが示された。
図1. 毛髪コルテックス部位における S-K 吸収端のXAFSスペクトル。(―)未処理毛髪、(…)ブリーチ処理毛髪。
図2. 未処理毛髪及びブリーチ処理毛髪断面に対して励起エネルギー 2473 eV および 2480.5 eV の軟X線照射より得られた蛍光X線マッピング図。(a)(b)未処理毛髪、(c)(d)ブリーチ処理毛髪。スケールバーは 10 µm。
今後の課題:
本研究において、軟X線分光法によって黒髪内におけるジスルフィド結合やシステイン酸の分布を評価することができた。本実験にて用いられた毛髪は直毛であり、内部のジスルフィド結合分布は比較的均一なものであったが、くせ毛のような波状形態を持つ毛髪は内部構造が不均一であることが知られている。また加齢とともに毛髪内部構造が不均一化して “くせ毛化” が進行していくとの報告もある。これらの毛髪構造の不均一性と硫黄元素分布の関連性を調べることで、髪質によるダメージ挙動の違いが見いだされるものと期待され、そのために本研究で行われたマッピング測定技術にて確立された測定プロトコルが充分に活用できると思われる。
参考文献:
[1] C. R. Robbins, “Chemical and physical behavior of human hair,” Springer, Germany, 5th edition, 2012
[2] M. Feughelman, Textile Res. J., 29, 223 (1959).
[3] W. G. Crewther, Textile Res. J., 35, 867 (1965).
[4] K. Suzuta et al., J. Cosmet. Sci., 63, 177 (2012).
[5] W. W. Edman, M. E. Marti, J. Soc. Cosmet. Chem., 12, 133 (1961).
[6] L. J. Wolfram et al., J. Soc. Cosmet. Chem., 21, 875 (1970).
[7] J. Chao, J. Soc. Cosmet. Chem., 30, 401 (1979).
[8] S. Ogawa et al., Sen’i Gakkaishi, 65, 15 (2009).
[9] A. Kuzuhara, T. Hori, Biopolymers, 79, 324 (2005).
[10] K. Suzuta et al., J. Fiber Sci. Tech., 72, 1 (2016).
[11] 今井健仁 他, 日本化粧品技術者会誌, 44, 208 (2010).
[12] 井上敬文 他, 日本化粧品技術者会誌, 44, 223 (2010).
[13] A. Funatsuki, Y. Tamenori, Forensic Sci. Int., 250, 53 (2015).
(Received: September 2, 2019; Early Edition: May 27, 2020; Accepted: July 6, 2020; Published: August 21, 2020)