SPring-8 / SACLA Research Report

ISSN 2187-6886

Volume8 No.2

SPring-8 Section A: Scientific Research Report

放射光を利用した赤外近接場分光
Infrared Near-Field Spectroscopy by Synchrotron Radiation

DOI:10.18957/rr.8.2.247
2014B1374, 2015A1486, 2015B1436, 2016A1473, 2016B1344, 2017A1267, 2017B1440, 2018A1356, 2018B1432, 2019A1541 / BL43IR

池本 夕佳

Yuka Ikemoto

(公財) 高輝度光科学研究センター

Japan Synchrotron Radiation Institute

Abstract

 BL43IR では高輝度赤外放射光を光源として利用する赤外近接場分光装置の開発を行っている。空間分解能評価のためのテスト試料として Si 基板上の金薄膜を利用した測定では、波長 10.6 〜11.0 µm の領域で空間分解能200 nmを達成していた[1]。本研究では、装置の光学系改造を行い、スペクトル領域の拡大を達成し、さらに、Si-O、Si-C に由来するピーク構造の観測も可能になったので報告する。


Keywords:赤外放射光、赤外近接場分光


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背景と研究目的:

 BL43IR では赤外放射光の高輝度特性を利用した顕微分光を主として行っており、物理、化学など様々な研究分野で成果を挙げている[2]。しかし、赤外光は波長が長く、顕微分光で達成できる分解能は数 µm にとどまる。一方、異物質の境界領域、ナノメートルオーダーで異なる物質や状態が分布している試料などにおいて、ナノメートルオーダーの空間分解能での赤外分光に対する需要は非常に高い。赤外近接場装置の開発はドイツの F. Keilmann、R. Hillenbrand らのグループが先導し、赤外線レーザーを光源とした装置で、数十ナノメートルの空間分解能を達成している [3]。近年、海外の赤外ビームラインをもつ放射光施設でも赤外近接場装置の開発が進んでおり、特に ALS では、優れたデータが発表されている[4]。またレーザー光源を搭載した市販の装置も複数販売されている。

 我々は、BL43IR の赤外光を利用して赤外近接場分光装置の開発を行い、放射光光源を利用した装置としては世界に先駆けて成果を報告した[1,5]。この際、空間分解能評価のためのテスト試料として Si 基板上の金薄膜を使用した。スペクトルの波数領域は 900〜1400 cm-1 であったが、金や Si 基板はこの領域で特徴的なピーク構造は持っておらず、全体の強度だけが変化する。我々は、波数帯域を広げることと、その帯域にピーク構造を持つ物質の近接場スペクトル測定が可能になることを目的として装置改造を行ったのでこれを報告する。

 光源の強度に着目すると、放射光光源を利用した赤外近接場分光装置が成果を挙げている ALS と比較して、BL43IR のフラックスはおよそ1桁小さい。また、市販の近接場分光装置に主として搭載されている量子カスケードレーザーと比較すると、2〜3 桁小さい。このような状況で、BL43IR における装置開発の意義は以下であると考える。量子カスケードレーザーの波数帯域は 1000〜2000 cm-1 程度で限定されているため、放射光光源の近接場分光装置の開発目的は、これよりも広い帯域での利用を目指す。特に、量子カスケードレーザー以外の様々な種類を勘案してもレーザー発振が不得意な帯域が 1000~100 cm-1 程度の領域にあり、この領域での開発を進めることが、重要であると考えている。一方、ALS との比較では、技術自体の重要性が挙げられる。近接場分光は、放射光の高輝度・広帯域特性を活かした技術で、需要も高い。BL43IR でフラックスが低いデメリットがあったとしても、将来の赤外放射光利用を考える上では不可欠であると考える。

 

実験:

 図1は赤外近接場分光装置の光学系模式図である。スペクトルを測定するための干渉計と試料とプローブを近接させるための AFM 装置からなる。平行化した赤外光を干渉計のビームスプリッター(BS)に入射し、片方を可動鏡に、もう片方をプローブ先端に集光する。可動鏡からの反射光とプローブ先端からの散乱光を干渉させて検出器に導く。検出器は、光起電力タイプの HgCdTe(MCT)検出器を使用した。素子サイズは 0.25 x 0.25 mm2 であった。プローブ先端に局在する近接場光をプローブ胴体や試料表面など他の散乱と識別し抽出するために、プローブの振動を利用した変調分光を行った[1,5]。AFM はタッピングモードで動作するため、約 32 kHz で振動している。ロックインアンプを使って、32 kHz の2次高調波成分を取り出して信号強度とする。横軸を可動鏡の位置とし、縦軸に信号強度をプロットしたグラフをインターフェログラムと呼ぶ。また、光路差がゼロになり全ての波長で強め合う位置をセンターバーストと呼ぶ。インターフェログラムをフーリエ変換して、横軸が波数のスペクトルを算出する。本稿で報告する装置の改造点は、1)プローブの観察方法、2)BS、3)光学系調整手順の3点である。各々について詳述する。

 

     

           図1 光学系模式図

 

 プローブ先端に赤外光を集光するため、プローブ周辺を拡大して観察する必要がある。これまで、デジタルビデオカメラ(SONY HANDYCAM HDR-CX12)と組み合わせた長距離高性能ズームレンズ(KEYENCE VH-Z50L)をプローブに対して斜め方向に設置していた。装置写真を図2(a)に示す。斜めからの観察では、焦点距離を合わせる操作が難しく、更に、プローブと光の相対位置・プローブと試料の相対位置が判別困難であった。そこで、図2(b)のようにプローブの真上に配置した。合わせて観察は HANDYCAM ではなく、近赤外対応の USB カメラとし、パソコン上での操作が容易になるようにした。図2(a)、(b)それぞれの配置でのカメラの観察像をインセットに示した。幅 35 µm のプローブは黄色の点線で囲った。図2(b)の観察像において、黄色の点線で囲った部分の下に別のプローブが見えるが、これは試料を金にしたために写った鏡像である。図2(a)と(b)では試料や照明が異なるため、観察精度の違いが分かりにくいが、真上からの観察により、焦点距離の調整が容易になり、また、プローブ・試料・赤外光の相対位置の観察精度が向上した。プローブに対する光の当たり具合のわずかな違いで近接場信号強度がかわるため、観察精度の重要性は大きく、その結果、調整時間が短縮された。以前は、金ミラー表面にプローブを設置した状態で、1日調整しても近接場信号を検出できないことが頻発したが、10~20 時間程度の調整で検出できるようになった。

 

     

        図2 装置写真

 

 BSは、ZnSe(直径 50 mm、厚さ 3 mm)の平行平板を用いていたが、改造後はフーリエ変換分光光度計(BRUKER 社製 VERTEX66v)の BS を利用した。BS の材質は2種類使用しており、近赤外用の石英(Q-BS)と Ge 基板の KBr (KBr—BS)である。平行平板では表面で反射した光と裏面で反射した光で光路差の異なるビームが形成され、光量をロスする。市販のフーリエ変換分光光度計で利用されている BS では、材質を薄膜化するなど裏面反射の問題を回避できる設計となっている。

 改造前に BS として用いていた ZnSe の透過帯域は、およそ 16000〜500 cm-1(0.63〜20 µm)で、可視の一部を含んでいる。従って、光学調整の際には、この可視光を見ながら調整することが可能であった。一方、改造後の BS について、Q-BS は透過帯域がおよそ 20000~3000 cm-1 (0.5〜3.3 µm)で、可視域は透過するが中赤外域の長波長側が通らない。KBr-BS は 9000〜500 cm-1 (1.1〜20 µm)で、中赤外領域は通るが可視域が通らない。調整手順としては、Q—BS で可視光を利用した調整を行った後、KBr-BS に変更して中赤外領域の測定を行う。可視光がみえることと、信号が検出されることが両立していないため調整手法の確立が必要である。主な手順は以下である。

1) BS は Q-BS とする。図2(b)の固定鏡は、最初はコーナーキューブミラーとし、可動鏡の方もコーナーキューブミラーとする。可動鏡はピエゾステージ(振幅 80 µm、数 Hzで振動)と、一軸Xステージ(粗動、最大 20 mm 程度手動でスライド)の上に設置している。ピエゾステージでミラーを振動させながら一軸ステージで大きく移動させ、可動鏡と固定鏡に至る光の光路差がゼロになる位置(=センターバースト)を探し、インターフェログラムを測定する。

2) BS は Q-BS を維持したまま、固定鏡のコーナーキューブミラーを放物面鏡に変更して、プローブ先端に赤外光を集光する。放物面鏡は焦点距離 30 mm であった。焦点位置における光のサイズは直径およそ 100 µm である。焦点距離を短くすれば光のサイズを小さくすることが出来るが、干渉計内でプローブやミラーが光を遮らない配置にするため物理的な制約があり、これを短くすることは容易ではない。検出器前に紙をおいて散乱光を観察し、プローブ先端からの散乱光を大雑把に見分けて、ここに可動鏡からの反射光が重なるように可動鏡を調整する。

3) ビームスプリッターを KBr-Ge に変更し、センターバーストを探してインターフェログラムを測定する。

4) プローブの振動振幅を増大させ、検出器からの出力をロックインアンプに入れる。プローブ振動数の2倍の振動数で振動する信号を抽出し、インターフェログラムを測定する。

 3)、4)では検出器の飽和を抑えて微弱な信号を高感度で検出するために、場合によって光学フィルターを利用する。2)でプローブ先端からの散乱光を他の散乱光から大雑把に識別する際はプローブを動かしながら観察しているが、4)まで進めて2倍の高調波が観測できないことで2)に戻って調整する場合も多い。

 

結果および考察:

 試料として金ミラーを置いた場合の 1)、3)、4)におけるインターフェログラムを図3(a)、(b)、(c)に示す。それぞれの積算回数は200、3000、6000 回であった。(b)、(c)では 1700~700 cm-1 だけを透過するローパスフィルターを利用した。それぞれのインターフェログラムのセンターバースト位置は、コーナーキューブミラーと放物面鏡の固定位置のずれや、プローブと光の相対位置の微調整のために、約百 µm 以内でずれている。図3ではセンターバーストの位置がほぼ同じ位置に来るように横軸をシフトして表示した。図3ではセンターバーストが同程度になるように強度を補正して表示した。オシロスコープとロックインアンプの縦軸スケールを参考に強度の比較を行うと、(b)は(a)のおよそ数十分の1、(c)は(b)の 1000 分の1であった。強度の比較について、文献6を参考にすると、プローブ先端からの散乱で(b)に相当する強度は入射光のおよそ10分の1、2次の高調波で(c)に相当する強度は数百分の1である。(b)と(c)の強度は文献6よりも小さいことになる。図3の(b)、(c)において、横軸 0.5 付近以外の位置に観測されている構造は、プローブ先端以外の散乱光によるものと考えられる。プローブ先端への集光性や照射確度、プローブ先端からの散乱光を検出器に導く調整など改善の余地がある。しかし、強度が小さいため、信号を積算しなければインターフェログラムを観測できていないことが、調整を困難にしている。

 

     

         図3 インターフェログラム

 

 図4は、試料を SiC 基板とガラス基板にした際の測定結果である。それぞれの基板の一部に金を蒸着し、プローブが金上にあるスペクトルと SiC 基板あるいはガラス基板上にある場合のスペクトルを表した。積算回数は、(a)はそれぞれ 10000 回、(b)は Au が 19000 回、ガラス基板が 5000 回であった、プローブを Au 上から SiC 基板やガラス基板上に移動させる際には、一度プローブと試料を離してから試料を動かして再度近接させた。図4には SiC に含まれる Si-C とガラス基板に含まれる Si-O のフォノンに対応する波数に明らかなピークが観測されている。実験の章で記載した3項目の改善により、検出される近接場光信号の強度が増しており、波数帯域が拡大したと考えている。BS の変更は強度に直結する。このほか観察の改善や調整手順の精査により、最大強度が得られるように調整ができるようになった。しかし、Si-C と Si-O 以外の微細なスペクトル構造を持つ有機試料などの測定も試みたが、スペクトルには至っていない。図4の(a)と(b)におけるAuスペクトルの形状が異なっている。Au は広い赤外領域で 99% 以上のフラットな反射率を持っており、図4の波数領域でピーク構造を持たない。Au から試料にプローブを移動させる際にプローブを離したり近接させたりする動作で、プローブの光に対する位置がわずかにずれる。赤外領域の放射光はビーム内で均一な強度分布を持っておらず、ビーム内のどの部分がプローブに強く散乱されたかによってスペクトル変化が変化する。特に、現在利用している AFM 装置は約20年前に東京理科大学で購入した装置を流用しており、プローブ位置の再現性に劣る。Si-O や Si-C は強度が強く幅が狭いピーク構造を持つため、スペクトル再現性に対する要求は高くないが、有機試料の場合には影響が大きい。最新型の AFM 装置の導入が必須である。2018 年度にこの問題を克服するための AFM 装置を導入した。プローブに対する集光性やプローブ先端からの散乱光を検出する手法を確立し、更に装置開発を進める予定である。

 

     

        図4 近接場スペクトル

 

参考文献:

[1] Y. Ikemoto et al., Jpn. J. Appl. Phys. 54 (2015) 082402 1-5.

[2] 池本夕佳、佐々木孝彦、檜垣勇次、ぶんせき3 (2019) 97.

[3] F. Huth et al., Nano Lett. 12 (2012) 3973.

[4] H. A. Bechtel et al., PNAS 111 (2014) 7191.

[5] Y. Ikemoto et al., Opt. Commun. 285 (2012) 2212.

[6] S. Amarie, T. Ganz, F. Keilmann, Opt. Express 17 (2009) 21794.

 

 

 

(Received: September 29, 2019; Early Edition: June 26, 2020; Accepted: July 6, 2020; Published: August 21; 2020)