SPring-8 / SACLA Research Report

ISSN 2187-6886

Volume7 No.1

SPring-8 Section A: Scientific Research Report

水素結合型混合原子価レニウム錯体における遠赤外吸収スペクトル
Far-Infrared Absorption Spectra in Hydrogen-Bonding Mixed-Valence Re Complexes

DOI:10.189567/rr.7.1.33
2015A1418 / BL43IR

松井 広志a, 富田 京志a, 赤城 達弥a, 池本 夕佳b, 田所 誠c

Hiroshi Matsuia, Atsushi Tomidaa, Tatsuya Akagia, Yuka Ikemotob, Makoto Tadokoroc

a東北大学, b(公財)高輝度光科学研究センター, c東京理科大学

aTohoku Univ., bJASRI/SPring-8, cTokyo Univ. of Science

Abstract

 N-H…N水素結合で結ばれたダイマーを基本単位とする混合原子価レニウム錯体単結晶試料について、顕微遠赤外分光実験を行い、吸光度スペクトルの温度変化を測定した。各種分子振動を観測し、DFT計算により帰属した。X線・中性子線結晶構造解析から、プロトンはN-N間の中心付近に分布することが分かり、プロトントンネルを期待したが、吸光度スペクトルには、トンネル等に起因した異常な吸収バンドは見出せず、局在したプロトンの振動状態のみを捉えた。


Keywords:遠赤外分光、顕微分光、電子プロトン連動、レニウム錯体


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背景と研究目的:

 プロトンと電子の協力的な移動現象(電子-プロトン連動、PCET)は、生体内化学反応やエネルギー変換過程において重要な役割を果たすことから、学際的な研究が進められている[1,2]。PCET機構の解明は、生態系のメカニズムに対して新たな知見を与えるに留まらず、外場に対して柔軟に応答する機能性物質の創成に大きく貢献すると期待される。しかし、溶液を対象とした実験が中心であり、かつ、熱力学的アプローチに基づく現象論や速度反応論に限られるため、微視的な移動機構、及びプロトンの量子力学的な効果は不明である。より研究を進展させるには、PCETを発現する単結晶試料において、系統的な研究が必要とされる。そうした中、共同研究者の田所らは、PCETが期待される単結晶試料を合成した。我々は、超広帯域な分光研究を通じて、プロトンの振動状態、及びプロトントンネルに関わる吸収バンドを検出することを目指した。

 今回実験対象とした系は、[ReCl2(PnPr3)2(Hbim)][ReCl2(PnPr3)2(bim)](以下、Cl-Cl塩と記す)、[ReBr2(PnPr3)2(Hbim)][ReBr2(PnPr3)2(bim)](Br-Br塩)、[ReCl2(PnPr3)2(Hbim)][ReBr2(PnPr3)2(bim)] (Cl-Br塩)、及び[ReCl2(PnPr3)2(bim)]H2O(Cl塩)の4種類である。ここで、PnPrはリン・ノルマルプロピル基、bimはビイミダゾール分子を表す。Cl-Cl塩の分子構造を図1(a)に示す。6配位の Re、及び Re イオンが、それぞれビイミダゾールの2つの窒素原子と配位結合する。ビイミダゾール分子同士は、N-H…N 水素結合で結ばれ、ダイマーを形成する。図1(b)の点線で囲まれたダイマーが基本単位となり、水素結合方向を揃えて配列し、三斜晶系の結晶が構成される。ダイマーの両端に結合する Cl- は、Br- に置換できる。水素結合をもたないモノマーのCl塩は、水素結合の寄与を比較するために実験した。


図1. Cl-Cl塩の分子構造(a)、及びac面の結晶構造(b)


 価数の異なるReイオンがダイマーに存在し、結晶系として混合原子価状態になっている。図1(a)では、プロトンは左側の窒素原子と共有結合する。このとき、5d電子を4個持つ Re が左側に、3個持つ Re が右側に存在し、電気的中性を保っている。プロトンが、トンネルすれば、右側に移動できるだろう。このとき、Reの価数も変わる必要があり、同時に電子の移動も生じる可能性が期待される。X線・中性子線結晶構造解析を行ったところ、水素結合するN-N間に位置するプロトンの電子密度分布、及び核密度分布が温度変化することが分かった。Cl-Cl塩のN-N間における分布は、室温で中心付近にブロードな極大を1つとるが、200 K 以下では2つの極大に変わる。Br-Br塩では、室温でも2つの極大を確認できる。これらの結果は、Cl-Cl塩では、2つの等価な安定サイト間をプロトンが容易に移動することを示唆しており、プロトントンネルが起きている可能性が期待される。

 これまで我々の研究グループでは、プロトン伝導を示すナノ細孔中水分子ネットワークの研究を行ってきた[3-5]。また、低次元シリケート化合物LDS-1の広帯域吸光度スペクトルにおいて、プロトントンネルを明確に捉え、振動状態を記述する対称二重井戸型ポテンシャルを決定してきた[6]。こうしたプロトンに関する研究経験を活かして、本研究に取り組んだ。もし、今回の系でもプロトントンネルが起きるなら、特徴的な温度変化を示す吸収バンドが観測されるはずである。X線・中性子線結晶構造解析で得たブロード化は、室温付近で見出されている。室温は、エネルギーに換算すると遠赤外域に相当する。さらに、今回のN-N間距離を考慮すると、プロトントンネルに起因する分裂準位間のエネルギーは、遠赤外域と期待できる。プロトンの運動に関わる何らかの吸収バンドが遠赤外域に出現するか確かめるため、SPring-8において顕微遠赤外分光実験を実施した。


実験:

 市販されている通常のFT-IR分光器では、中赤外域の顕微分光は可能であるが、遠赤外域の顕微分光は行えない。今回使用した単結晶試料は、平行四辺形に近い形状をもち、典型的な大きさは 1×0.7×0.3 mm3 程度である。試料サイズが小さすぎるため、通常のFT-IR分光器では遠赤外域の実験は困難である。そのため、ビームラインBL43IRに常設されている顕微遠赤外分光器でなければ、高い分解能で吸光度スペクトルを得ることは不可能な状況にあった。検出器には、Siボロメータを、ビームスプリッタとして、3.5 µm 厚のマイラーを利用した。オックスフォード社製光学クライオスタットを使用することで、4.5~300 K の範囲で試料温度を変化させた。試料は、0.5 mm 厚のダイヤモンド基板に設置した。光学クライオスタットには、200 µm 厚のプロピレン窓を取り付け、透過配置で吸光度スペクトルを取得した。各温度に対する吸光度スペクトルは、分解能 2 cm-1、積算回数32回で行った。

 吸光度スペクトルに現れる各種吸収バンドを帰属するため、Gaussian09と既存のコンピュータシステムを用いてDFT計算を行った。なお、計算は、モノマーで行った。Cl-Cl塩の片側に相当する ReCl2(Pn Pr3)2(Hbim)、及び ReCl2(Pn Pr3)2(bim) を、それぞれ計算した。交換相関エネルギーを与える汎関数はB3LYP、既定関数は H、C、N、P、Cl 原子に対して6-31G(d, p)、Reイオンに対してはLanL2DZを用いた。各モノマーに対して、最適化構造、分子振動スペクトルを計算した。


結果および考察:

 図2に、今回測定した4種類の単結晶試料に対する吸光度スペクトルの温度変化を、N-H…N水素結合方向に対して平行配置(a)と、垂直配置(b)に分けて示す。150 cm-1 以上の主な吸収バンドは、DFT計算の結果に基づきほぼ帰属できる。低波数側から、吸収バンド d(nPr)、δ(P-C)は、それぞれノルマルプロピル基の変形モード、P-C変角振動である。これらの共鳴振動数は、4つの試料において観測される。νs(Re-Cl)と νas(Re-Cl)は、それぞれRe-Cl対称伸縮振動、非対称伸縮振動であり、Re、Re に関連して2個の吸収バンドが現れる。ただし、νs(Re-Cl)は平行配置に、νas(Re-Cl)は垂直配置にのみ観測される。νs(Re-Cl)、νas(Re-Cl)は、いずれも d(nPr)より高波数側にあるが、νs(Re-Br)、νas(Re-Br)は、原子量の増加により低波数側に現れる。Cl-Br塩では、d(nPr)の両側に吸収バンドが出現する。


図2. 吸光度スペクトルの温度変化と偏光依存性


 500~650 cm-1 には、ビイミダゾールの振動モードが現れる。平行配置にのみ観測されるモードは、ビイミダゾールの変形モード d(bim)と、C-N面外変角振動 γ(C-N)である。これら共鳴振動数は、塩によらずほぼ同じである。振動形態を図3(a)と(c)に示す。垂直配置には、N-H面外変角振動 γ(N-H)を観測しており、振動形態を図3(b)に示す。


図3. ビイミダゾールに起因する振動モード


 平行配置において、Cl-Cl塩、Br-Br塩、Cl-Br塩には、140、100、140 cm-1 付近に吸収バンドが現れるが、モノマーのCl塩には観測されない。また、垂直配置にも現れないことから、各Reイオンを中心に各モノマーが同方向に回転する束縛回転振動と考えられる。束縛回転振動では、N-N間距離が変調を受けるため、水素結合に寄与するプロトンとの非調和結合が期待される。しかし、これら吸収バンドには、異常な温度変化は見出せない。さらに、他の遠赤外域にも、ソフト化、或は積分吸光度が低温で増大するような異常を示す吸収バンドは見出せない。

 4つの試料について、時間領域分光法に基づくテラヘルツ実験を行ったが、顕著な温度変化を示す吸収バンドは観測されなかった。なお、我々のテラヘルツ分光装置では、顕微分光が行えない。透過配置で測定するため、直径 1.2 mm のアパーチャを覆う大きいサイズの単結晶試料を用いた。Cl-Cl塩におけるX線・中性子線結晶構造解析では、室温付近でプロトンの分布が広がり、プロトントンネルが示唆されている。定常的にプロトントンネルが起きるなら、波動関数の重なりにより、基底準位は分裂し、分裂準位間の励起を観測できるはずである。

 プロトントンネルが明確に検出されたLDS-1では[6]、O-H…O水素結合で結ばれた非常に狭いO-O間にプロトンの安定サイトが2か所存在し、対称二重井戸型ポテンシャルで記述される。ポテンシャル障壁より低エネルギー側にある基底準位の波動関数は重なり合うことで、分裂準位 n = 0 と 1 が生じる。0→1 励起に関わる吸収バンドが、93 と 155 cm-1 に観測される。これら吸収バンドは、200 K 以下で観測され、温度の低下により積分吸光度が激しく増大する。ここで、2つ吸収バンドが存在するのは、隣り合うO-O間のプロトン同士にクーロン相互作用が働くことで、対称と非対称な振動モードが出現するためである。さらに、0→3 励起に関わる吸収バンドが、1210 と 1220 cm-1 に見出されている。これらの積分吸光度も、200 K 以下で増大する。0→1、0→3 励起の温度変化は、0及び1準位の占有率の温度変化に起因する。非常に狭い準位間隔が実在することは、定常的なプロトントンネルの発生を証拠付ける。

 Cl-Cl塩では、N-N間の安定サイトにあるプロトン同士の波動関数の重なりは、LDS-1よりも大きいことが予想される。LDS-1と同様に、対称二重井戸型ポテンシャルを仮定すると、n = 0 と 1 の間隔はより広いはずであり、遠赤外領域に見出されることが期待される。しかし、顕著な温度変化を示すバンドは遠赤外域には、観測されない。これは、2つの安定サイト間のプロトンの移動が、定常的ではなく、ダイナミカルに起きることを示唆している。

 中赤外域には、N-H伸縮振動に起因した特徴的な吸収バンドを、1935 と 2500 cm-1 に観測している。積分吸光度は、特に温度変化しないことから、対称二重井戸型ポテンシャルにおける 1→2 や 0→3 励起には帰属できない。解析を進めた結果、これらは、非対称二重井戸型ポテンシャルを用いてよく再現できることが分かった。1935 と 2500 cm-1 の吸収バンドは、非対称二重井戸型ポテンシャルにおける 0→1、0→2 励起と考えられる。このとき、プロトンが安定する極小間距離は、0.57 Å と見積もれる。N-N間のプロトンは、2つの安定サイトをもつと期待される。今回決定した非対称二重井戸型ポテンシャルは、いずれかの安定サイトに局在したプロトンの振動状態を反映すると結論できる。安定サイト間のプロトン移動は、いずれかのサイトに滞在する時間スケールよりも短い時間で起きるため、平均としての吸光度スペクトルは、滞在時間の長い振動状態に支配されると考えられる。したがって、本系のプロトン移動は、定常的なプロトントンネルとしては扱えず、電子と連動したダイナミカルな現象であることを示す。


今後の課題:

 今回実験した遠赤外域を含め、広帯域吸光度スペクトルには、定常的なプロトントンネル、及びPCETの兆候は捉えられず、プロトンは基本的に局在状態にあると考えられる。しかし、電子スピン共鳴の実験では、電子のトンネルを示唆する結果も得られており、ダイナミカルなプロトンの状態を研究することは今後の課題である。

 電子とプロトンの相関は大変魅力的な課題ではあるが、プロトン-格子(フォノン)相互作用についても、これまでのところ知見はほとんど得られていない。こうした相互作用は、プロトンに起因した誘電転移、及び超プロトン伝導転移の機構と深く関わるため、基礎的に重要な研究課題といえる。特に、超プロトン伝導転移温度を決める要因と深く関わるはずであり、そうした知見を得ることは、次世代型の燃料電池電解質の開発に欠かせない。我々は、典型的な超プロトン伝導体 Cs3H(SeO4)2、及びその関連物質について顕微遠赤外分光実験に着手しており、プロトン-格子相互作用を解明していきたい。


参考文献:

[1] M. Hang, V. Huynth, and T. J. Meyer, Chem. Rev. 107, 5004 (2007).

[2] S. H. Schiffer and A. A. Stuchebrukhov, Chem. Rev. 110, 6939 (2010).

[3] H. Matsui et al., J. Phys. Soc. Jpn. 79, 103601 (2010).

[4] H. Matsui, and M. Tadokoro, J. Chem. Phys. 137, 144503 (2012).

[5] H. Matsui et al., J. Phys. Soc. Jpn. 83, 054708 (2014).

[6] H. Matsui et al., J. Chem. Phys. 143, 024503 (2015).



ⒸJASRI


(Received: June 7, 2018; Early edition: August 24, 2018; Accepted: December 17, 2018; Published: January 25, 2019)